寿都町歌棄町の町並
歌棄町
地図
歌棄町の鰊御殿
寿都町歌棄町は北海道西部、後志地方の西部、寿都湾の東岸に位置する。 近世には西蝦夷地に属しヲタスツ場所。江戸期はじめから松前藩の蠣崎元右衛門知行地で代々世襲され、安政2年(1855)幕府領、安政6年(1859)から幕府領庄内藩警衛地となって明治に至る。 場所請負人は初め松前の福島屋金兵衛家、文化年間(1804〜18)は松前川原町の吉田屋喜左衛門家、文政年間(1818〜30)は松前の柳屋庄兵衛家、天保年間(1830〜44)から松前の住吉屋徳兵衛家、嘉永6年(1853)以降は松前の枡屋栄五郎家(安政4年に佐藤栄右衛門と改名)が請け負って明治に至る。 寛政10年(1798)頃の蝦夷地絵図にはヲタスツ交易所とある。「西蝦夷地場所地名等控」に「蝦夷男女人数60余人、夷家30軒」とある。「西蝦夷日誌」に「運上家、。夷屋44・5軒(中略)番屋もあり……」。坂本「西蝦夷日誌」に「土人(文政改)46軒・209人」とみえる。「蝦夷日誌」に運上屋・弁天社・夷人小屋25・6軒(人数は25年以前は120−130人で当時は60人ほど)。 文化3年(1806)の「遠山・村垣西蝦夷日記」によると、運上屋1棟、蝦夷家27軒とある。 「廻浦日誌」に「運上屋1棟、板蔵8棟、蝦夷人小屋1、漁具小屋1、土人小屋15軒、人別54人」とある。 玉虫「入北記」に「和人家150軒土人なし、昨年までは土人も居れとも疱瘡流行に付き、19人のうち10人死去、残るもの9人はクロマツナイ山中に引き籠り今に帰らない」と記される。 当初はアイヌを使役して漁業に当たっていたが、近世後期になりアイヌが減少して漁場労働力が不足してくると和人漁民の導入が本格化し、天保年間(1830〜44)以降は鰊漁を行う二八漁民(出稼人)の進出が活発化し、各地に二八小屋が営まれた。その直接の契機は天保3年(1832)頃から地内に東北地方の飢民が渡来するようになり、場所請負人はこれらの漁民に米・味噌などを貸し付ける仕込み制下で漁業を営ませ、同時に運上家直営の番屋での労働力を確保したことにある。 今、歌棄町には鰊御殿、道文化財の漁場建築の旧佐藤家住宅やレンガ蔵などが、国道229号線沿いに残っている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 日本の地名北海道 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2003年 |
歌棄町のレンガ倉庫 |
歌棄町の倉庫 |
歌棄町の漁家旧佐藤家 |
歌棄町の鰊御殿 |
歌棄町の町並 |