寿都町磯谷町の町並
磯谷町
地図
磯谷町の町並
寿都町磯谷は北海道西部、後志地方の西部、寿都湾の東岸に位置する。 近世には西蝦夷地に属しイソヤ場所。宝永3年(1706)から松前藩の下国季豊知行地で代々世襲され、安政2年(1855)幕府領、安政6年(1859)から幕府領庄内藩警衛地となって明治に至る。 場所請負人は初め松前の恵比寿屋治助家、文化・文政年間(1804〜30)は松前枝ヶ崎町の柳屋庄兵衛家、天保3年(1832)から松前の住吉屋徳兵衛家、以後はヲタスツ同様佐藤栄右衛門家が請け負った。佐藤栄右衛門が請け負った当時の運上金は上納金137両、別に秋味運上57両、鱒7両、鱈3両、雑漁5両、上乗金7両、差荷物代13両であった。 「西蝦夷地場所地名等控」に「蝦夷男女人数百人程、夷家三十二軒」とある。坂本「西蝦夷日誌」に「土人(文政改)24軒・83人」とみえる。「廻浦日誌」に「運上屋1棟、板蔵9棟、夷家当時5軒、人別17人」とある。 玉虫「入北記」に「和人家百十六軒、土人家三軒、但し昨年の疱瘡流行にて15人の内8人死亡、残る7人山中シリベツ川上六里程行キメナト云う所へ引き籠り」という。 当初はアイヌを使役して漁業に当たっていたが、近世後期になりアイヌが減少して漁場労働力が不足してくると和人漁民の導入が本格化し、天保年間(1830〜44)以降は鰊漁を行う二八漁民(出稼人)の進出が活発化し、各地に二八小屋が営まれた。その直接の契機は天保3年(1832)頃から地内に東北地方の飢民が渡来するようになり、場所請負人はこれらの漁民に米・味噌などを貸し付ける仕込み制下で漁業を営ませ、同時に運上家直営の番屋での労働力を確保したことにある。 国道229号線を北から南に向かって走っていて、防風柵が張り巡らされている集落見つけたち寄ったもの。調べると江戸後期から明治・大正と鰊漁で賑わっていたが、今、磯谷集落には番屋も鰊御殿も残っておらない。只、防風柵が至る所に設置されている。日本でも有名な強風地帯として名が通っているようで、風速10m以上の風が一年の半分以上に及ぶ。春から夏にかけて吹く南南東の風は「寿都ダシ」と呼ばれている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 日本の地名北海道 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2003年 |
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