白石市の市街は宮城県最南部、白石川中流域の右岸に位置する。 白石城下町は江戸期を通じて、仙台藩白石城領主片倉氏の支配地として明治を向かえる。片倉氏の居城白石城は一国一城令にかかわらず、仙台藩では仙台城の他に白石城を城として認められたものであった。しかし、城下は正式には城下町でなく、在郷町扱いであった。 町内は、郭内・郭外に区分され、郭内は武家丁として城廻・田町・桜小路……など18ヶ町で、城を取り巻くように配置されていた。郭外は町人町で宿駅であった。町人町の主要部は「六町」と呼ばれ、本町・中町・長町・亘理町・短ヶ町・新町で白石宿を形成していた。他に本郷と云われる村分があった。 家中家数は郭内18町内に397・六町内198・本郷内25と合計620軒であった。町人町の家数は寛文10年(1670)の記録では本町92・中町50・長町55・亘理町33・短ヶ町48・新町57の合計335軒であった。 産物として紙布と紙衣がある。紙布は文字通り紙を織ったものであるが、紙衣は紙と絹や木綿を織り込んだものである。片倉家家臣の内職として多くが生産されていたものである。 白石宿は奥州街道の宿駅で、六ヶ町で構成されていた。本陣は亘理町に一軒、本町に南部本陣と呼ばれる一軒があった。これらの本陣も享保15年(1730)までは無かったようで、大肝煎堀内伝平衛の家が本陣を勤めたと云う。旅籠は幕末頃数軒が記録に残る程度。検断は各町にほぼ3軒分の屋敷をとり問屋場を兼ねていた。 今、白石市街に伝統的な様式の家屋は少ししか残っていない。町人町であった中町や本町に僅かに残っているが、アーケードに隠れて見栄えがしないが、白石城の周りの武家屋敷町には、当時の町割りがそのまま残り、水路も残って風情ある町並を展開している。大きな門を構え、土塀の連なる家屋が多く見られる。 一般的には町人町の豪商の家が残り、武家屋敷の町並が残らないのが多いが、この町では武家屋敷の町並の方が見応えがあった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 宮城県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1987年 |
西益岡町の町並 |
中町の町並 |
中町の町並 |
沢端町の町並 |
西益岡町の町並 |
西益岡町の町並 |
西益岡町の町並 |
西益岡町の町並 |