白河市の中心部(旧城下町・旧白河宿)は福島県南部に位置し、中通り南部の中心都市で、古来より陸奥の表玄関に当たる。江戸期は城下町・宿場町として栄えた。 白河結城氏が中世の白河を支配し、本拠城は搦目の白川城でしたが、南北朝期に新に結城氏の居城として小峰城が築かれたと云われる。 豊臣秀吉の奥州仕置きにより、結城氏は改易させられ、白河は会津藩になり、蒲生秀行が領主のときに小峰城や城下が整備されたと思われる。 江戸期初めの寛永4年(1627)丹羽長重が入り白河藩が成立、寛永6年(1629)から本格的に小峰城(白河城)の築城と城下町の整備に着手した。重臣を城の北側の二の丸・三の丸に、中級武士を城の西側の会津町に、城下を通る奥州街道沿いの城の南側と東側に町家を配置し、その外側に足軽屋敷を置いた。 奥州街道に沿って町家は南から新町(一番町・二番町・三番町・七番町・九番町)、直角に東に折れて天神町、枡形を挟んで中町、東に進んで本町、直角に北に折れて横町・田町と続いた。天神町から田町までの五町を通り五町と呼ばれ、今の町の原型が出来上がった。城下では四・九の日に六斎市が交替で本町・横町・天神町で行われていた。寛文年間(1661〜73)の城下町の町家数947軒、人数7,544。元禄5年(1692)の家中屋敷数1,237軒とある。 白河には奥州街道の宿場も置かれていた。白河宿の北方の女石で会津地方に向かう白河街道を分岐し、白河宿内では白河を東西に繋ぐ棚倉街道が交差していた。宿村大概帳による宿高は4,463石余、宿内町並は南北31町半。天保14年(1843)の宿内家数1,285、本陣1、脇本陣2、旅籠35、宿内人数5,959とある。 今、白河の旧奥州街道沿いを歩くと、重厚な構える見せる造り酒屋さんの家屋が目につく。白漆喰で塗り固められた伝統的な家屋の造り酒屋さん以外にも、どっしりと構えた屋敷が点在する。本町には脇本陣柳屋と表示された建物と入口があったが、他には白河宿を案内する説明などは掲示されていなかったと思う。 参考文献 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
本町の町並 |
本町の町並 |
八百屋町の町並 |
本町の町並 |
八百屋町の町並 |
八百屋町の町並 |
八百屋町の町並 |
八百屋町の町並 |
中町の町並 |
中町の町並 |