下郷町弥五島は会津地方南部、阿賀川左岸、河岸段丘上に位置する。 江戸はじめは会津藩領。寛永20年(1643)からは南山御藏入領。弥五島村の村高は寛文5年(1665)556石余、文化15年(1818)の村日記及び「天保郷帳」「旧高旧領」では共に636石余。寛文5年(1665)の家数69・人数440、馬62。宝暦8年(1758)の会津郡大沼郡人別牛馬改帳では家数106・人数445。「新編会津風土記」によると家数93。 現在の会津若松市から栃木県日光市今市までの会津西街道(下野街道・南山通り)は、江戸時代には、現在の福島県道131号線で大内宿を通り、楢原宿から国道121号線で今市と繋がるルートだった。会津藩・新発田藩・庄内藩・米沢藩などの参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要であった。しかし天和3年(1683)の日光大地震により、鬼怒川の支流男鹿川が土砂で堰き止められて通行できなくなったので、元禄8年(1695)代替街道として会津中街道(南山松川通り・松川新道・宇都宮街道)が整備された。それは若松城下から阿賀川に沿って南下し、弥五島宿から阿賀川を離れ松川宿・野際宿を経て、現在の那須岳国有林を通り、板室宿・百村宿・高林宿とほぼ直線に南下して、現在のさくら市の氏家宿に至るルートである。最短ルートであるが、那須の山々を越えねばならない難点があった。 弥五島宿を通る会津中街道は開通28年目の享保8年(1723)に会津西街道(下野街道)が復活すると、交通量は激減してしまった。その間にこの会津中街道を通った参勤交代の大名は会津藩が3回と越後村松藩が1回の計4回だけだった。 明治17年に会津三方道路の開通で、大内宿・倉谷宿も、那須の山々も通らない、現在の国道121号線の原型ルートが主道路となった。 弥五島宿は会津中街道(松川新道)沿いの宿駅で、北は小出宿へ、南は松川新道の松川宿へ継送りした。また塩生宿へも継送りしていた。会津中街道から参勤交代の姿は消えたが、会津から関東への最短ルートには違いないので、会津三方道路が開通するまでは会津西街道と競合していました。 今、弥五島の町を歩くと、この地方独特の寄棟で鉄板葺きの家屋を多く見ることができるが、他の地域と異なり妻を街道に面している家屋が少なく、多くが平入の家屋だった。これも宿場町だった期間が短かったためだろうか。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
弥五島の民家 |
弥五島の町並 |
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