江戸時代の宿場の面影を今に伝える町並、茅葺き屋根の連なる宿場町それが大内宿。 大内は江戸初期から下野(しもつけ)街道の宿駅であった。下野街道は別名会津西街道・日光街道・南山通り・中奥街道・今市街道とも呼ばれ、会津若松から下野今市に至る街道である。 大内村は大内宿を持った宿駅村で。北は大内峠・氷玉峠を越して関山宿に、南は中山峠を経て倉谷宿へ至る。 江戸初期に宿駅として整備され、そのとき屋敷割りが行われ間口6間4尺・地坪6畝20歩に整然と割り付けられ、火除け屋敷として所々に1軒分の空地を置いた。家は街道の両側に各24戸づつ計48戸と推定されている。問屋本陣・脇本陣のほかに会津藩の廻米の際利用した郷蔵があった。 江戸時代はじめは会津領であったが、寛永20年(1643)からは南山御蔵領。元禄4年(1691)の万覚書帳では大内村の家数66・人数351。宝暦8年(1758)の家数71・人数309。明治4年の家数47・人数274。 江戸初期には会津藩主の参勤交代路で、江戸への廻米路でもあった。天和3年(1683)地震による山崩れで下野街道の五十里宿(いかり)が水没し通行不能となったため、元禄8年(1695)南山松川通が開かれると、下野街道の交通量は激減し大内宿も衰退した。享保7年(1722)五十里湖の水抜きによって街道が復活したが、すでに会津若松からの主要道は白河街道に移っていた。 そして明治17年会津三方道路の一つ日光街道が大川沿いに開通すると、大内は宿駅としての機能を失い山間に取り残されて、昔日の宿場の面影を留めた茅葺き屋根の連なる宿場風景が残ったのである。 今でも全ての家が道路に面し、妻を道に向けた寄棟造り、屋根は茅葺きの民家が並んでいる。 道路は6m程でその両側には石積みの用水路があり、清流が流れていた。家はその用水路から数m後退して建っている。屋敷割りは江戸初期に割付されたままのようであり、間口は約12m程度奥行きは60m程度であった。 それにしても大勢の観光客が押しかけていて、土産物屋や食堂の店先が人人で溢れ返り、町並を鑑賞するには早朝しかないようであった。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 福島県の歴史散歩 山川出版社 福島県高等学校社会科研究会 1990年 歴史の町並を歩く 保育社 高士宗明 平成6年 日本の町並V 平凡社 湯原公浩 2004年 |
旧大内宿の町並 |
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