三戸町の町並 
久慈町・川守田町・六日町・二日町
地図


六日町の町並
 三戸町の中心部は青森県の南東部、南部地方の南、馬淵川の支流熊原川が馬淵川に合流する手前の両側に位置する。
江戸期は盛岡藩領。三戸通に属していた。
天正18年(1590)南部信直は三戸城を居所と定め、梅内村と川守田村の地を割いて城下町の建設にあたった。しかし従来の支配地の他に、岩手・志和・稗貫・和賀・閉伊の各郡が新たに領地となり、南方へ領域が拡大したため、北方に偏した三戸では無理となり、翌年(天正19年1591年)居所は福岡城に移された。更に慶長3年(1598)から寛永年間(1624〜44)にかけて盛岡城に移されて、元和年間(1615〜24)には町方住民の多くも盛岡に移された。以後三戸村は在郷町・宿場町として発展し、郷帳類では三戸村として扱われるものの三戸城下・三戸町と呼ばれていた。
城下町は最初、三戸城の南に武家屋敷を配置し、その西に同心町が置かれ。町家は奥州街道沿いに、南から北に八日町・二日町・熊原川を渡って六日町・川守田町・久慈町として形成された。だが三戸城から福岡城へ、更に盛岡城へと居所が変わったため、家臣・町人ともに盛岡へ移住したが、三戸城はこの後も盛岡城の支城として存続した。
しかし、寛永10年(1633)居城が盛岡城に定められると形式的には幕令に従い廃城となったが、同12年(1635)からは城代が派遣され、町奉行が置かれ町役人が任命されて支配を続けた。
しかし、貞享年間(1684〜88)には城代・町奉行が廃止され、かわって三戸通を管轄する代官が置かれ、地方政治の中心地となった。三戸通の村々の物資の集散地として交易の中心地となり、奥州街道沿いにあるため宿駅としても栄えた。
。このように三戸町は江戸中期までには城下町から在郷町へ性格を変化させていった。
「邦内郷村志」によると家数は344。「御領分中宗門改人数目録」によると、三戸町の人数は、天和3年(1683)1,491、元禄14年(1701)1,650、享保19年(1734)1,705、宝暦5年(1755)1,632、寛政2年(1790)2,029とある。
今、古い町並は旧奥州街道沿いに北国らしいトタン屋根の切り妻造り平入りの伝統的な建物が点在する町並みである。国道4号線がバイパスとなって町並の東側を通ったため、古い町並みが保存された状態で残った。
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参考文献   
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和60年
  青森県の地名  平凡社  下中邦彦  1982年  

久慈町の町並み

久慈町の町並み

久慈町の町並み

久慈町の町並み

川守田町の町並み

川守田町の町並み

川守田町の町並み

川守田町の町並み

六日町の町並み

二日町の町並み
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