酒田は古くから最上川河口の港町として発展し、近世に西廻り海運が開かれてからは、日本海有数の商港となり、最上川舟運との中継地点として栄えた。 鎌倉〜室町期には最上川の流路が定まらず、大永年間(1521〜28)頃には、河口は大水によってしばしば移動し水深も浅くなり、酒田湊は荒廃し、酒田の草分けである36人衆をはじめとする問屋や寺院は慶長年間(1596〜1615)にかけて、最上川河口の右岸に移転した。 やがて、西浜の船着き場辺りを町割りして、36人衆の問屋仲間が屋敷を構え、倉庫や船着き場を設け河岸8町を造った。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの余波による兵火の後、本格的な町割りが実施された。亀ヶ崎城の城下町と港町が直結され、東西に貫通する4条の大通りと、南北の多数の小路がが設けられ、碁盤の目状の町並ができた。問屋や豪商たちのいる本町は最上川筋に沿って、幅8間の大通りに割り付けられた。そしてその北側には中町・内匠町・寺町などが設けられた。当時の町割りは今日に至るも、ほぼそのままの形で残っている。 元和8年(1622)の推定家数821軒・人数4,105人。明暦2年(1658)の酒田町絵図では町数37町・家数1,277軒・人数6,385人。 戦国期以来、日本海有数の港町であった酒田には、有力商人からなる三十六人衆と呼ばれる集団があり、彼らは北方海運の廻船業を主に、蔵米の諸払いや、材木輸送を行う豪商で有ると共に、彼らが酒田の自治組織の中心であった。しかし庄内藩の支配機構が整備されるにつれて町政に対する権限は縮小された。 酒田港の物資の集散が急激に増加するのは、河村瑞賢によって西廻り航路が開発され、西国方面の廻船が急速に北国へ進出増加してからである。酒田の日和山には村山・庄内の幕府領の城米を保管する瑞賢蔵と呼ばれる米置き場が設けられた。 天和年間(1681〜84)の記録では入港船数は春から9月までに2,500〜3,000艘もあり、月平均では315〜375艘もの船が停泊していたことになる。関西からの木綿・衣類・砂糖・塩や蝦夷地からの海産物などが、酒田の問屋の手によって川船に積み替えられて内陸の商人に送られ、最上川を船運で運ばれてきた内陸の米などの穀物・紅花・蝋・タバコなどの特産品は、酒田に寄港する諸国廻船によって各地に運ばれた。 特権的大商人を中心とした酒田の町は元禄期(1688〜1704)に全盛をきわめたが、享保期(1716〜36)以降になってくると、本間家などの新興商人層が台頭してくる。その頃から本間家は町政にも参画しだし、問屋・海運業に加えて地主として土地集積をはじめたのもこの頃である。 「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれた本間様は、第2次世界大戦までは、集積した土地約3,000町歩、小作人2,700人といわれ、日本一の大地主の名をはせていた。江戸時代は藩主への多額の財政援助により500石取りの士分を許されていた。酒田の西浜は広漠とした砂丘地帯で、北西の強風による飛砂と火災に苦しんいた人々の悲願であった、西浜砂防林造成を私費でもって成功させ・神社仏閣への寄進・港の改築など、酒田にとっては本間家無しでは語れないほど貢献の数々を行っている。 町並は明治27年の庄内大地震による、土の盛り上がりや火災の発生による未曾有の大災害や昭和51年の中町から発生した大火によって市の中心部は、殆ど焼けてしまい古い町並は市中心部の西側に少し残っている程度である。 そんな中で、日本一の大地主本間家旧本宅や米問屋の旧鐙屋(伊東不玉宅)が、類焼区域にありながら、焼け残っているのは、大きな土塀で囲まれていたり、屋敷林によって類焼が免れたと見られている。 酒田の近代は米穀取引を中心に発展していった。明治中期から乾田馬耕の普及とそれに伴う耕地整理事業推進の結果、収穫量は昭和10年代には、明治10年代の24倍にも達した。 明治19年酒田米商会所が開業し、明治26年に酒田米穀取引所となり、その倉庫として山居倉庫が造られたもので、今でもJA全農庄内の農業倉庫として現役で活躍中である。 昭和51年の大火で焼けた地域の西側には、今でも料理屋などの料亭や造り酒屋などが軒を並べている。元々浜街道の酒田町の北端に位置し茶屋が多かったところで、文化10年(1813)には37軒の茶屋株が公認されていて、酒田の遊所として有名であった所である。 山形県の歴史散歩上 山川出版社 山形県高等学校社会科教育研究会 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 山形県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
日吉町の料亭街 |
日吉町の料亭街 |
日吉町の町並 |
船場町の町並 |
山居町の山居倉庫 |
山居町の山居倉庫 |
二番町の本間家本邸 |
二番町の本間家本邸の長屋門 |