陸中海岸の南の玄関口、陸前高田市街の南に位置するのが今泉地区である。気仙川の河口近く、浜街道と今泉街道の交わる交通の要衝の宿場町として栄えたところである。 天正19年(1591)今泉村を含む気仙郡は伊達政宗領となり、以後仙台藩のまま明治を向える。文禄元年(1592)二日市城に城代鈴木宗記が入ってから中島信真、大条尾張守宗綱らが城代を勤め、寛永3年(1626)大町豊後のとき城代居館は二日市城から高田東館城に移され、寛永8年(1631)からは城代は置かれず、定期的に巡回する代官制と大肝入による郡政へと移行した。 今泉村は代官所と大肝入の置かれた郡政の中心地で、町場の成立は寛永19年(1642)の検地以前とされ(安永風土記)、元禄11年(1698)の気仙郡古記では長さ6町、家数71、代官屋敷・御蔵・御船小屋・高札場などがあり、足軽24名が駐在していた。 安永風土記では寛永19年(1642)家数175(町住居158・村住居17)・人数717(男374・女343)。町場は気仙川西岸に北から南東並び、荒町49間・御免町30間・九日町25間・八日町1町55間であった。 大肝入は吉田家で、元和6年(1620)気仙大肝入に任じられてから、一時期を除き幕末まで気仙大肝入を世襲していた。 今泉地区の家屋は殆どが明治期以後のものであるが、大肝入の吉田家住宅は茅葺きの江戸時代からの豪壮な屋敷である。この今泉の古い家屋の特徴は「とおりニワ」を持つ家が多くあることです。今泉のとおりニワは入口以外は家屋内でなく、屋根がないことである。採光や通風のためだろうと思うが、その点が京都のとおりニワと異なる点である。屋根は通りに面した棟と後方から直角に別棟が合体した形であった。 岩手県の歴史散歩 山川出版社 岩手県高等学校歴史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 岩手県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 |
今泉の町並 |
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今泉の民家のとおりニワ |
大肝入の吉田家 |