胆沢地区は日本三大散居村の一つに数えられている散居集落である。 胆沢の地名はすでに奈良期に見え、「続日本記」で宝亀7年(776)11月26日条に「陸奥軍三千人を発して、胆沢の賊を伐つ」とあり、この賊とは胆沢蝦夷のことである。東北のこの地方は蝦夷の組織的な抵抗が大きく、政府の征夷政策は功を奏さなかった。征夷大将軍坂上田村麻呂は延暦20年(801)4万の兵を持って、胆沢蝦夷を攻略して征服し翌年に胆沢城(現奥州市水沢区)を築城している。 天正19年(1591)この地は伊達氏領となり、江戸期を通じて仙台藩領で推移した。 この散居村のあるのは胆沢扇状地と言われる地域で、奥州市の胆沢区・前沢区・水沢区にまたがる広大な扇状地である。奥羽山脈の焼石岳に源を発する胆沢川と、南の衣川との間にある広大な扇状地で、扇頂は胆沢区若柳字市野々として、東方に約20kmの半径を描き、扇端は北上川に及ぶ地域である。 扇状地域には水利網が縦横に発達し、県下有数の稲作地帯で、典型的な散居村風景が見られる。屋敷の北と西に杉を中心とする「えぐね」(防風用の屋敷林)が茂り、「えぐね」の下には「きずま」(薪を積んで塀状にしたもの)が見られる。また中には長屋門を構えた家も見られる。 個々の家については現代の建物だったり、江戸時代から続く建物だったりといろいろだが、えぐねが醸しだす散居村風景は日本の農村風景の原風景のように思う 岩手県の歴史散歩 山川出版社 岩手県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 岩手県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 |
胆沢区の散居村 |
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胆沢区の散居村 |
胆沢区散居村のキヅマ |
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