鰊漁業に湧いた祝津の町並み。網元の番屋の建物が残る町並み。小樽運河を中心とした観光と違った小樽発見。 この地には以前からアイヌ集落があったようで、小規模ながら農耕も行われ、正徳5年(1715)にはアイヌが栗を作っていたとの記録がある。江戸後期には番屋が設けられ、ニシン漁を主体とし、夏漁も行われていた。寛政年間(1789〜1800)以降この地への出稼ぎ漁民が増え、松浦武四郎「再航蝦夷日誌」には、此処よりタカシマ迄は小屋つづきにし而繁華なり」と記載されているように、多くの小屋が立ち並び、人々が漁業で生活していたのだろう。 明治2年の永住漁民22軒78人、出稼ぎ漁民16軒44人、ニシン漁場38ヶ所とある。 祝津村、明治12年の戸数57・人数281。明治24年の戸数201・人数1,361。明治33年の戸数293・人数2,811。海産物はニシン・タラ・サバ・カレイ・ホッケ・アワビなどであった。 小樽周辺のニシン漁は、幕末〜明治初年までは年産4万石平均と言われていたが、明治20年代には2万2,000〜3,000石程度に退潮していった(1万石は7,500トン)。しかし漁場の開拓、増網と漁法・漁具の改良で水揚高も、乱高下を繰り返しながら、明治30年には最高の水揚げをし、その後豊凶を繰り返しながら、徐々に衰退、沿岸2〜3海里沖合いの漁場に転じ、その後、機船の導入により石狩湾一帯を漁場とするものに変っていった。 明治30年に前後には、年産70〜100万トンの漁業総生産の約65〜75%をニシン漁が占めていた。 18世紀後半から、本州において米作・綿作など農業での肥料の需要が多くなり、松前藩は日本海航路の北前船による交易で、ニシン粕を大坂や日本海沿岸、瀬戸内沿岸の各地に送り出し、大きな収入源とした。町中に廻船問屋の土蔵がびっしりと立ち並んでいた。その名残が石造り倉庫群であり、祝津の網元漁家住宅の番屋である。 今も祝津には三大網元と言われた、白鳥家番屋・茨木家番屋そして青山家別邸が残っている。青山家番屋は札幌市郊外の「北海道開拓の村」に移されて健在である。 青山別邸は大正12年に建てられたもので、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と云われた山形県酒田の本間家にも優るものと建てられた豪邸。 祝津にはその他に、日和山灯台そばの見晴らしのいいところに壮大な鰊御殿がある。これは鰊漁が盛んな明治30年ごろ、鰊大尽と呼ばれた積丹半島有数の網元田中福松が、西積丹泊村に7年の歳月をかけて建てた、間口29m・奥行き13mの漁家住宅で、ニシン漁最盛期にはこの家で120人もの漁夫が寝泊りしたそうだ。 昭和33年に北海道炭鉱汽船(株)が買収し、祝津に移築し、小樽市に寄贈したものである。 北海道の歴史散歩 山川出版社 北海道歴史教育研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 |
祝津3丁目の鰊御殿 |
祝津3丁目の白鳥家番屋 |
祝津3丁目の茨木家番屋の船頭の家 |
祝津3丁目の茨木番屋 |