大崎市三本木は宮城県のほぼ中央よりやや北寄り、大崎耕土の南端に位置し、鳴瀬川が町中央を東流する。 天保郷帳の村高878石余、約1/3が江戸期の新田、青木氏などの知行分が140石余りで、残りは藩の蔵入り地。「安永風土記」によると、家数214・人数981、馬90、舟2艘で舟は80石積の穀運送舟と渡し舟。 元和年間(1615〜24)奥州街道が仙台領内を南北に通じて開かれ、鳴瀬川南岸の南町が宿場となった。北岸の北町が宿場となるのは少し遅れ、寛永17年(1640)の検地以降であった。 奥州街道に交差して、出羽の尾花沢に向かう尾花沢街道、東に向かう松山街道の分岐点でもあった。鳴瀬川の水運も開け、北町裏には藩蔵が6棟もあり、付近の産米を集めて石巻港まで運び、三本木宿は大変な繁栄であった。 北町に本陣1(鈴木屋三右衛門)、脇本陣2(郷屋利兵衛・鈴木屋雄三郎)が置かれ、参勤交代の大名(南部氏・津軽氏・松前氏など)が利用したという。 しかし、明治23年日本鉄道の開通により街道筋の往来は急速に減少し、三本木宿も衰退した。更に大正2年、大正9年の大洪水で堤防が決壊し、その復興のため、本陣・脇本陣・蔵場などの大半が取り払われてしまった。 三本木宿の古い伝統的な建物を期待して訪ねたが、東北大震災の被害に遭って多くの古い建物が取り壊されていた。中でも北町の新澤醸造店の建物を期待していたが、残念ながら古い建物は取り壊されてしまっていた。 町並を歩くも、大きな門だけ残して更地になった屋敷が多く目につき、心を痛める町並探訪だったが、三本木大橋の南側袂にある大きな門を構えた屋敷の建物は、大震災にも耐えたようで残っていたのには嬉しく思ったが、屋敷の奥だから写真が撮れないのは残念だった。でもこの屋敷の大きな門は明らかに傾いていて、今は使われてないようだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 宮城県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1987年 |
三本木北町の町並 |
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