旧松山町の中央部千石は中世・近世を通じてこの辺りの中心地で、近世には茂庭氏の居館が置かれ、宿場・城下町は松山と呼ばれた。 天正19年(1591)伊達政宗は松山の地を石川大和昭光に与えた。その後松山には古田内匠重直が入り、慶長8年(1603)には茂庭周防良元が松山に入り、以後幕末まで松山を知行した。 茂庭氏は最初千石城の三の丸を使っていたが、中世的な山城で周囲に家臣を配置する場所が少ないので、明暦3年(1657)上野館に移り、千石城は廃城になった。 寛永17年(1640)検地帳によると茂庭氏の家中侍54人・足軽56人。町居住の百姓50人とある。元禄15年(1702)には茂庭氏の侍屋敷130軒・足軽屋敷67軒があった。 「安永風土記」によると千石村には人頭108、うち町居住79・村居住28、家数148(内借家38)、人数は649とある。 今、町並は古くからの南北の通りに展開している。店蔵だったり、切り妻造り妻入りのトタン屋根の家屋だったり、土蔵だったりと多彩な家屋が連なる。 今、町では酒ミュージアム、ふるさと歴史館、華の蔵などの施設を設けて町おこしに力を入れられているが、何となく活気が無いように感じる町並であった。 宮城県の歴史散歩 山川出版社 福岡県高等学校歴史研究会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 宮城県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1987年 |
松山千石松山の町並 |
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