大石田町の町並み 
大石田
地図


大石田の町並
 大石田は最上川舟運の最大の中継河岸として発展したところである。
元和8年(1622)最上氏改易により、当地は山形藩鳥居氏領となった。その後この地は城米搬出のための最上川舟運中継基地である河岸を巡って、一村であった大石田村を分村を重ねて寛文8年(1668)には4ヶ村となっている。
宝永7年(1710)の御巡視様一件帳によると、幕府領の村高は460石・百姓48・水呑12・名子43・人数552。山形藩領の村高652石・家数47軒・人数177人。陸奥白河藩領の村高312石・百姓29軒。宝暦11年(1761)の御巡見様御下向ニ付御案内留帳によると、肥後島原藩領の村高657石・家数69軒・人数316人とある。
寛永元年(1624)の村山郡石高帳に見える大石田新町316石・大石田本町194石・大石田四日町460石・新大石田村657石とあるが、天保郷帳では大石田村一村で1,602石となっている。
複雑な支配関係と分村は、最上川水運の拠点である大石田河岸に割り込んで輸送手段の確保をはかるためだった。しかし大石田の4ヶ村は行政面では複雑であったが、河岸としての機能は果たし、生産・生活していく上では大石田惣町として一体であった。
大石田は河岸で有ると共に、在郷町として村方・町方・船方とかなり複雑な構造になっていた。
最上川の川船は酒田湊に拠点を置く酒田船と、内陸部に拠点を置く最上船とに分かれていた。城米・私領米の川下げには酒田船と最上船が半分づつ当たった。船数は元禄年間(1688〜1704)が最も多く、元禄10年(1697)の酒田船は大小360艘。元禄16年(1703)の最上船は大石田河岸の独占で大小292艘であった。
最上川船の統制・采配ははじめ大石田河岸が独占的に請け負っていたが、その後最上船の船差配役が年期請負・入札制となったが混乱が生じたので、幕府は寛政4年(1792)に川船役所を設置して、船運秩序の建て直しを図り、それ以後明治5年の通船が自由になるまで続いた。
大石田には最上川舟運を背景に成長した荷宿・船持商人が多くいた。明治5年に最上川船運が自由になり、道路整備と明治30年代から大正初期にかけての鉄道開通により、最上川舟運は役割が終わり、大石田商人たちは地主経営に切り替えた。
今、大石田の河岸があった辺りの町並は、川運時代の繁栄を物語る白壁の土蔵が少し残っているだけだった。
切り妻造り平入りの店蔵、妻入りの店蔵が点在するも、町並と云えるほど連続してないのが惜しまれる。
町並み指数  20
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和56年
   山形県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1990年
   日本の町並V  平凡社  江田修司   2004年

大石田の町並

大石田の町並

大石田の町並

大石田の町並

大石田の町並

大石田の町並
古い町並みへ戻る