二戸市福岡地区は岩手県北部、北上山系と奥羽山脈に挟まれた、馬淵川中流域右岸、八戸市街から南西に直線距離にして約30kmに位置する。 江戸期を通じて盛岡藩領。享保20年(1735)から福岡通に属す。 天正19年(1591)三戸南部信直と反南部方の九戸政実の間に一大争乱が起こった。九戸政実を攻略するために、豊臣秀吉の武将蒲生氏郷らの兵約25,000人程が動員され九戸城は落城し、政実は斬首の刑に処せられた。後に南部信直が三戸城から九戸城に移り、福岡城と改め信直が盛岡城に移るまで居城となった。 慶長4年(1599)南部信直・利直が盛岡城に移り、翌慶長5年(1600)利直の庶子経直が城主になったが、僅か16歳で慶長18年(1613)に死亡した。その後寛永16年(1639)に廃城となり、約50年続いた福岡城は幕を閉じた。 戦国期から江戸初期にかけて、福岡城下を中心とした奥州街道沿いに町場が形成された。福岡には御蔵や高札場の他代官所も設けられるなど、早くから駅場として重視されていた。正保3年(1646)「雑書」の記事によると、福岡三日町(三日町の場所は不明)で市立が行われており、その前年には金田一町で火災が発生していることからも町の様子が伺える。 寒冷地や山村のため農産物による収入が多く見込めないため、早くから馬産地として知られ、多くの馬の養育が行われ、この地の馬市でセリに掛けられていた。 明治以降、福岡は周辺地域の物資の集散地として栄えた。木蝋の生産が盛んに行われた。製糸工業も活発に活動しているなど。 今、古い町並みは旧奥州街道(旧国道4号線)に沿って展開している。今でも県北の行政・経済・文化の拠点として機能している。そんな町並の中に古い伝統的な民家の建物が混在している。トタン葺き平入り切り妻造りの東北らしい建物に混じって、近代建築も散見できるのは、江戸期から大正。昭和にかけて賑わっていた証と思われる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 岩手県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 別冊太陽 日本の町並V 平凡社 湯原公浩 2004年 岩手県の歴史散歩 山川出版社 岩手県高等学校教育研究会 1996年 |
福岡中町の町並み |
福岡中町の町並み |
福岡中町の町並み |
福岡下中町の町並み |
福岡下中町の町並み |
福岡上町の町並み |
福岡上町の町並み |
福岡上町の町並み |
福岡城の外の町並み |
福岡城の外の町並み |