二本松市渋川二本松は中通り北部、安達太良山東麓の裾野に位置する。 江戸期の渋川村ははじめは会津藩であったが、寛永20年(1643)からは二本松藩領、渋川組に属す。村高は宝暦10年(1760)の「高辻帳」1,631石余、「天保郷帳」1,870石余、「旧高旧領」1,852石余。家数は享保年間(1716〜36)の積達大概録で243軒、延亨3年(1746)の御巡見録でも243軒。 慶長3年(1598)当村の二本柳に奥州街道の宿駅が開設された。油井宿と八丁目宿間の輸送に当った。問屋は2軒あった。宿開設当初の町割りの様子は不明であるが、宿の長さは道の南側が3町17間・北側が2町50間位とある。宿内の道は中堀が3尺で両側にそれぞれ3間の道があったので、現在の道幅に相当する。中堀は昭和49年末に埋められ側溝になった。 慶長3年(1598)の開設当初の宿駅の家数は50軒程度と思われる。宝暦11年(1761)の御巡見様御案内控によると、家数61・茶屋1、役馬30疋。 宿駅と言えども全て農家であったが、車屋・竹屋・材木屋・鍛冶屋などの屋号をもっている家が8戸確認できる。油井宿から北上し、西に曲がると二本柳宿で、問屋2軒があり、馬継等を行っていたが本陣は無かった。 今、旧二本柳宿を歩くと、宿の出口(西端)の丁字型の円東寺前から直線に町並が並び、油井宿ら続く道との曲がり角まで約450m程に家屋が並んでいる。特別に古い家屋が見られないのは、明治に入ってからの大火で殆どが焼失したため。 妻を街道に向けた家屋が多く、土蔵も妻を街道に向けて建てられていた。街道が東西に走るので平入の建物が多いはずと思って調べると、この二本柳宿の開設当初の町割りに関係していた。当地区の伝承では、一軒分は間口7間、奥行き22間で、問屋は2軒分が割り当てられたのが、今にそのまま続いているようだった。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
渋川二本柳の町並 |
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渋川二本柳の町並 |
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