二本松市本町は中通り北部の二本松市の中心部、霞ヶ城(二本松城)跡の南東にあり、二本松城下六町の内の一つである。 戦国期から複雑な領主変遷を経て、寛永20年(1643)丹羽光重が二本松に入り二本松藩が成立し,その支配が維新まで続いた。二本松城は畠山氏によって築城され、戦国期に城下町が成形されたが、丹羽氏が入封した時には、城と城下は狭くて家臣を収容することが出来なかった。そのため城下の整備に力を入れ、正保〜明暦(1644〜58)にかけて新たに町割りを実施した。 城下六ヶ町(西から順に若宮町・松岡町・本町・亀谷町と続き、北に折れて竹田町・根崎町と続く)を町割し、郭内の家中屋敷と分離した。城下六ヶ町の町並は、奥州街道沿いに連なり、全町に用水が引かれた。 家数は659(積達大概帳)、享和元年(1801)720軒(領内人数総高調)、文政3年(1820)736軒(郷村略記納高)、天保11年(1840)759軒(六町屋鋪間口家主名面帳)。人数は寛政3年(1791)3,318(二本松藩月番留書)、文政3年(1820)3,635(郷村略記納高)。 前述の通り町並は、地形の関係で奥州街道に沿って列状に縄張りされ、面状に発達することなく、殆どの町家は奥州街道に沿っていた。若宮町から亀谷町までの奥州街道は、中央を流れる中堀の幅は3尺、中堀の両側には2間の道が通っていた。 今回訪ねたのは、この奥州街道に沿った松岡から亀谷の間で、主として本町(もとまち)辺りである。 旧街道の面影は殆ど残っていないが、伝統的な様式で建てられた商家建物が点在し、中には土蔵造りの商家建物も見られる。町の中心地として発展を見たので建て替えが進んだ結果、古い町並が残らなかったと思われるが、今も商業活動が活発な地域で活気ある町並が展開していた。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
本町の町並 |
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