この地は江戸時代には紅花の集荷地で村田商人が大活躍したところだ。 奥州街道の大河原宿から北上し、沼辺・村田郷を通り笹谷越えの笹谷街道川崎宿を経て山形に至る街道が通っていた。この道に沿う村田郷には町場が形成され、六斎市も開かれていた。 村田郷はこの近辺で栽培される紅花や藍玉の集荷地で、その干花は笹谷街道で奥羽山脈を越え、最上川舟運経由、西廻り航路で大坂や京に運ばれた。また奥州街道や阿武隈川で江戸まで送られたものもあった。その取引を行ったのが村田商人であった。 この地では中世から村田館が支配に当っていた。江戸時代はじめは仙台藩直轄地であったが、初代仙台藩主伊達政宗の七男宗高より始まった村田館主は、その後複雑な変遷を経て、貞享元年(1684)より芝田文之丞常春が任ぜられ以後芝田氏が8代続き慶応元年(1865)に片倉氏が代って領している。 村田郷は大河原代官所に属し、南方郡奉行の支配、そして村田郷に住した北方大肝煎の管轄であった。北方大肝煎は大沼家が代々世襲で勤めた。 村田郷は館下町・宿場町・紅花の集荷町として発展したが、明治に入り東北本線、国道4号線などの主要交通路から外れて、近代の発展から取り残された。その結果旧街道沿いに土蔵や豪勢な門構えの商家の建物が、両側に建ち並んだ昔の姿がそのまま今に残ったのである。 家屋は殆どが店蔵と呼ばれるもので土蔵造りの店舗である。店蔵は殆ど切り妻造りの平入りで全て2階建て、通りに面して屋根庇を付け、外壁下部をマナコ壁にしている。2階正面には観音扉の窓を設けている。 一階部分を改装して、店舗として営業されている家も見受けられるが、多くは昔のままの姿を残していて、見ごたえのある町並を形成していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 宮城県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1987年 小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2003年 日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 |
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