県のほぼ中央部に位置する県庁所在地。この地に城を築城し、城下町を設営をしたのは南部信直といわれ、慶長3年(1598)のことである。この時に不来方から盛岡に名称を変更している。 城下町は五の字型の構想で建築さた。盛岡二十三町と総称される町人町や平山小路・帷子小路・下小路などの侍屋敷ができた。 慶長18年(1613)近江商人村井新兵衛が来往し紙町に居住した。彼を頼って近江高島郡(滋賀県)大溝の出身者が相次いで来往した。屋号は井筒屋・近江屋・鍵屋などで、彼らは領内産の砂金を持ち出し、見返りに上方から多くの商品をもたらして巨利をあげた。そして城下で酒・醤油・髪油を製造販売した。彼らは享保年間(1716〜36)頃から藩の財政が苦しくなると、御用金の調達に応じ、御用商人として領内で勢力を誇った。 紺屋町は城下町二十三町の町人町一つで、中津川左岸に位置し、はじめは染物職人の居住地であり、天明8年(1788)の家数71・人数662。町の規模は3町程であった。染物では中津川の清流を利用した南部むらさきや南部あかねの技法が生まれ、盛岡藩の特産物であった。 そして江戸の中期になり、この地に近江商人をはじめ豪商が軒を並べるようになり、特に寛延2年(1749)にこの地で店を持った近江商人の鎚屋は、弘化4年(1847)頃には藩内第一の豪商となっていた。 明治8年の家数141。明治に入ってこの地に第一国立銀行支店・北上海漕株式会社・盛岡銀行・盛岡電灯株式会社(東北電力)などの東北を代表する企業が創業をはじめた。 今盛岡の中心地紺屋町を歩くと不思議な感じになる。大都会の中心地に茣蓙九(ござ九)のような建物や古い伝統的な建物が連なって、どうして残っているのだろうと。 この辺りに建つ盛岡を代表する近代建築は旧盛岡銀行(現岩手銀行中の橋支店)・旧盛岡貯蓄銀行(現盛岡信用金庫本店)・旧第九十銀行本店本館の三つである。中でも旧盛岡銀行は緑のドーム屋根に白ラインの入った赤レンガの壁が印象的だ。設計は辰野金吾で東京駅など近代建築設計の大御所だ。 その他に黒漆喰壁の旧井弥商店・大正時代の番屋など、時代を錯誤するような建物が、現代建築物の中に溶け込んでいた。 鉈屋町も盛岡城下二十三町の一つで、北上川左岸に位置する。天明8年(1788)の家数・人数は川原町と合わせて144・1,048であった。町の規模は4町ほどであった。盛岡城下に入る南方面からの街道筋で、今でもその面影を残した町並であった。 岩手県の歴史散歩 山川出版社 岩手県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 岩手県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 東北小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2003年 |
旧井弥商店 |
紺屋町の町並 |
紺屋町の町並 |
大正時代の番屋 |
紺屋町の町並(手前の建物が茣蓙九) |
旧盛岡貯蓄銀行 |
旧盛岡銀行 |
鉈屋町の町並 |
鉈屋町の町並 |
鉈屋町の町並 |