三笠市幌内町の町並
幌内町一丁目・幌内北星町・幌内金谷町
地図


幌内町一丁目の町並

 三笠市幌内は北海道中央部、石狩平野の東端、空知地方の南部に位置し、札幌市街中心部から北東に約50kmにあたる。
江戸期は西蝦夷地に属し、はじめイシカリ13場所のうち上ユウバリ場所、のち一括して扱われたイシカリ場所の一部であった。この地域にはアイヌ集落も、和人がすんだ記録も無い未開の地であった。。
和人が初めて踏みいれたのは正徳〜宝暦年間(1711〜64)頃で、石狩山林で大規模な木材伐採を請け負った飛騨屋久兵衛のもとの杣夫たちであったと思われる。
明治期に入り、石炭の調査が行われ、明治12年官営幌内鉱が開鉱した。石炭を運ぶための道路・鉄道などが次々と整備、開通した。この間に炭山出張所の官員、技師、職工、人夫たちの小屋や家ができ、町並が形成されていった。
幌内村の家数・人数は明治16年183・685。明治24年273・1,036。
また、明治15年には空知集治監が設置され、囚人を使役しての採炭がなされた。最も多い時には3,000人を越える囚徒を収容し、常時1,000人を炭鉱に出役させていた。労働力の確保が困難だった当時の北海道で、安価に大量の労働力として囚徒を使役したのである。
だが、犠牲者が多く批判も高まり、明治27年でこの出役は中止となったが、炭鉱と空知集治監によって当地は札幌以東随一の市街を形成した。
明治22年官営の鉱山・鉄道の払い下げをうけ、北海道炭鉱鉄道会社が発足した。幌内炭鉱、幾春別炭鉱、奔別炭鉱なども本格的に開発、出炭を行うようになり、当時の北海道で代表的な炭鉱となった。明治の末年で幌内では従業員1,500人、年産15〜19万トンを出炭した。
この時期の商工業の中心になっていたのは市来知で、繁華な市街を形成していたが、明治34年空知集治監が廃監なると商家の転出が続き、幌内が中心地となっていった。そして大正3年市来知にあった役場庁舎は炭鉱開発による当地の発展に対応して幌内太に移転してきた。大正5年の幌内村の家数1,441・人数6,156とある。
昭和36年三笠町字幌内であった当地を、幌内金谷町・幌内春日町など12の町名に分割した。今回訪ねたのはその内の幌内町一丁目である。三笠鉄道記念館も開設され観光地として発展する筈であったが、石炭産業の衰退と共に廃村同様の状態を呈していた。炭住街には居住されている住居も少なく、朽ちるに任せた集落もあり、訪ねるのが忍びない状態であり、探訪を早々に切り上げた。               
町並指数 30
参考文献
    角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和62年
    日本の地名北海道  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  2003年 



幌内北星町の旧炭住建物

幌内北星町の旧炭住建物

幌内北星町の旧炭住建物

幌内北星町の民家

幌内金谷町の炭住建物

幌内町一丁目の町並

幌内町一丁目の町並

幌内町一丁目の町並

幌内町一丁目の町並

幌内町一丁目の町並
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