松前町の町並
松城・唐津・博多・大磯
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博多の町並

 松前町は北海道の南西部、渡島地方の南西端に位置する最北の城下町である。
松前は北海道の文化発祥の地であり、鎌倉期から和人が移住しはじめた。松前慶広が松城に福山館を築き、江戸期を通じて近江商人をはじめとして多くの移住者が移り住み、政治・経済・文化の中心として発展した。明治期以降、北海道の中心が札幌に移されると、城下町から漁業の町へと変化していった。
慶長9年(1604)蠣崎(松前)慶広は徳川家康より黒印状を受け、松前藩が成立し、慶長11年(1606)福山館を築城した。北海道で米の生産が行われていなかったので、松前氏には石高がなかったが、アイヌとの交易で成りたっていた。
享保4年(1719)には1万石格の待遇となり、寛文9年(1669)頃の藩士の数は侍中34人、切米取50人で、侍中には蝦夷地商場や和人地内の給地が与えられていた。
江戸初期には家数500戸程で市場が開かれ、毎年300艘程の大船が、米・酒などを積んで来港し、アイヌは3月〜9月に城下に来て干鮭・鰊・白鳥・鶴などを和人と交易した。寛文9年(1669)頃には家数が600〜700となり、東西12〜13丁の浜沿いに建ち並び、侍屋敷が入り混じっていた。
福山城下の人数は、享保2年(1717)に3,775人、天明7年(1787)に6,385となった。大半が和人で安永6年(1777)の城下の家数1,448・人数6,004、うち武家170軒・1,526人、文化3年(1806)2,025・8,119(うち侍2,007)であった。町人の比率が他藩の城下に比べると多かった。
アイヌや諸国の商船との交易ははじめは松前城下でのみ行われていたが、寛永年間(1624〜44)頃からは主要地点に商場を設けての交易が行われ、商場知行制が確立した。近江商人は寛永年間(1624〜44)ころから渡来し、松前交易で利益を上げた。
北海道の中心が札幌に移る前の北海道の中心地だった松前町ですが、余り古い町並が残っていないが、松前城近くには幾つもの寺院が集まり、独特の雰囲気を醸し出している所があり、有る意味小京都とも思える。
城下町でありながら近江商人が活躍し、多くの松前商人を生みだした町だが、商家建物も武家屋敷も余り残っておらない。北前船によって多くの富を蓄積したはずの町だが。
海岸に沿った旧国道筋を城下通りと名付けて、電柱やアンテナを取り払い、古い商家を再現した古い町並を新しく造る整備が行われていた。個人的にはあまり好まないのですが、古い町並が全く無くなってしまうよりはまあいいかと云う所。                               
町並指数 30
参考文献
    北海道の歴史散歩  山川出版社  北海道歴史教育研究会      1994年
    角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和62年
    日本の地名北海道  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  2003年 



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