宮城県丸森町の中心部は宮城県の最南端、阿武隈川の右岸、支流の内川流域で、両川に挟まれた地域である。 当地を領したのは、「伊達世臣家譜」などによると、寛永21年(1644)に山口内記、寛文2年(1662)遠山勘解由で、天和2年(1682)からは佐々氏が知行し明治に至る。 佐々氏は着座の家格で、「宝暦職鑑」によると所拝領3,036石余で、侍屋敷72軒を許されている。 「安永風土記」では人頭400人のうち寛永19年の検地時の百姓は64人、家数494・人数2736、馬258とある。 丸森村は丸森町と称した宿場で、幹線道ではないが、金山本郷や神明渡しによって阿武隈川対岸の館山村を経て角田本郷へ継立てた。村西端の水沢は対岸の耕野村沼ノ上とともに阿武隈川舟運の中継点で、「安永風土記」によると渡し舟4艘が城米用として無役であった。 上流から小鵜飼船で積出された城米・蔵米は当地で大型の船に積替え、河口の荒浜(亘理町)まで運ばれた。 番所や幕府役人・他領大名などの宿泊所である外人屋、また米沢藩上杉氏の陣屋もあった。 丸森宿は寛永14年(1637)、明和6年(1769)、寛政11年(1799)と大洪水の被害を受け、町場移転願いをだして、現在地に移転してきたもの。 前記「丸森村安永風土記」に本町2町・横町1町余、家数88とある。宿では5・9に市が立ち、紙・絹繭・桑・楮などが取引された。 今、古い町並は南北の街道に沿って、土蔵造りの店舗の商家と郵便局建物が中心になって古い町並を形成している。店蔵と云われる明治期になってから発達した防火建物である。江戸期に火災によって痛みつけられたのだろう。中でも旧斎藤家(斎理屋敷)の建物は廻りの風景を威圧したような、重厚で巨大な建物であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 宮城県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1987年 |
町東の町並 |
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