黒石市中町に残る「こみせ」は藩政時代から今に残る木造アーケードで、冬の吹雪や積雪から、また夏の強い日差しから人を守り、軒を連ねていた旅籠や呉服屋・米屋などの商家にとってはなくてはならないものでした。 大浦城から堀越城に本拠を移した津軽為信は、慶長15年(1610)からの高岡城(弘前城)の築城に伴い、黒石城の諸資材が持ち運ばれて弘前城の建築に利用され、黒石城は廃城となった。 しかし、黒石は明暦2年(1656)、陣屋の所在地として蘇った。津軽信英が5千石の分知を得て、黒石津軽家の祖となり、今の黒石市民文化会館辺りに陣屋を建造したものである。この陣屋に在住した黒石津軽家は初代信英から11代承叙までで、廃藩後明治6年旧陣屋跡に黒石小学校が開設され、旧陣屋の馬場に黒石公園が開設された。 陣屋建築当時の町人町は古町・横町・本町・流町など13町があり、侍町として内町・市ノ町・大工町があった。侍屋敷は享保年間(1716〜36)の黒石府家之図では29となっている。 城下の家中の人口は、天保4年(1833)では619人、天明年間(1781〜89)町人の家数は727・人数2,133。文政12年(1829)では家数733・人数4,450。嘉永5年(1851)では家数633・人数3,831とある。 黒石周辺は有数の米産地であり、凶作にも被害は少なく、富裕な町人が生まれた。また酒造も盛んで幕末には、大小の酒造業者は100軒を越えていたといわれる。 元禄4年(1691)の黒石御絵図には中町は前町・浜町とともに、弘前方面から青森方面に通じる街道筋に位置し、酒造屋・呉服屋・米屋が軒を並べ、前町・横町などの商人町とともに黒石城下の経済の中心であった。 この中町も元治元年(1864)の半右衛門火事、明治2年の久一火事で被災したが直ぐに復旧した。今でも南北に通る道路両側には軒が張り出した木製アーケードの「こみせ」がよく保存され、人々の生活を守っています。このこみせは主屋の一階の高さに合わせたもので、この生活の智恵の木製アーケードは貴重な先人から受け継いだ遺産である。 そんな中に、国の重要文化財の高橋家住宅や市文化財の鳴海家住宅、NHKの大河ドラマのロケに使われた中村家住宅などが「こみせ」の町並景観に大きく寄与していた。このこみせ(新潟県では雁木)は津軽や新潟に多く見られたそうだが、今では殆ど姿を消してしまった。黒石のこのこみせは何時までも残って欲しいものである。 青森県の歴史散歩 山川出版社 青森県高等学校地方史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 青森県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2003年 |
中町の町並(西谷家こみせ美術館) |
中町の町並(造り酒屋) |
中町の町並(造り酒屋) |
中町の町並 |
中町の町並 |
中町の町並(国の重文 高橋家) |
中町の町並 |
中町の町並(造り酒屋) |
中町の町並 |
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