国見町小坂は福島県東北部、中通り最北部、阿武隈川支流の上泉川(旧行歩川)上流域に位置する。 近世初めは会津領、慶長6年(1601)出羽米沢領、慶長8年(1603)米沢藩領、寛文4年(1664)幕府領、延宝7年(1679)福島藩領、天和2年(1682)幕府領、元禄13年(1700)桑折藩領、延享4年(1747)上野篠塚藩領、明和4年(1767)幕府領、安永4年(1775)仙台藩預り地、天明8年(1788)幕府領、享和元年(1801)備中足守藩領、天保3年(1832)からは幕府領。 村高は文禄3年(1594)の蒲生高目録で911石余、延宝2年(1674)の検地帳では747石余、「天保郷帳」759石余、「旧高旧領」756石余。 慶長10年(1605)頃の邑鑑では家数30・人数154。宝暦11年(1761)の御巡見使案内控では家数64・人数347、馬24。天明6年(1786)の宗門人別帳では家数59・人数278、馬13。天保8年(1837)の村明細帳では家数60・人数]310とある。 小坂村には羽州街道(七ヶ宿街道)の小坂宿が置かれ、北は仙台藩領になるため、上杉領時代から、口留番所が置かれていた。明暦2年(1656)金山峠の改修が行われたが険路であった。しかし出羽方面の大名が参勤交代で、羽州街道を通り小坂宿を利用することが多くなった。 万治2年(1659)の頃には肝煎・検断・問屋がいて、その後は名主の他に検断・問屋が置かれている。 本陣として松屋清右衛門・秋田屋八郎平衛がいた。松屋清右衛門は出羽山形藩・出羽庄内藩・出羽天童藩など十数藩が、秋田屋八郎平衛は秋田藩が本陣として使用した。 明治14年の小坂村誌には宿屋4軒が見える。寛政(1789〜1801)以来通行量が増大したため、助郷に係る問題が多くなっている。 宿場の家数は明治9年の小坂村絵図では、街道の両側に各20軒が連なっている。 今、宿場町当時の面影は殆ど残っておらないが、ナマコ壁・白漆喰壁の土蔵を備えた大きな屋敷の邸宅が数軒見られる。これらの家が宿場町当時この宿場で大きな役割を持っていた家だろうと思いながらの探索だった。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
小坂小坂の町並 |
小坂小坂の町並 |
小坂小坂の町並 |
小坂小坂の町並 |
小坂小坂の町並 |
小坂小坂の町並 |