郡山市湖南町福良の町並 
湖南町福良
地図


湖南町福良の町並

 郡山市湖南町福良は猪苗代湖南岸に南から流入する菅川中・下流域平地と後背山地に立地。
江戸期は会津藩領。村高は文禄3年(1594 )の蒲生高目録では2,629石余、文化15年(1818)の村日記では2,906石余、「天保郷帳」2,924石余、「旧高旧領」2,918石余。正徳5年(1715)の家数315・人数1,286、明治4年の家数319・人数1,291とある。
福良は古くから湖南の中心地として栄えていた。また伝馬宿駅として機能していたようで、天正19年(1591)蒲生氏郷が天下一の茶碗焼楽常慶を会津に下向させた際、「ふくら」村に伝馬二疋の出役を命じていることからも判る。
白河街道の宿駅「福良宿」の宿内は白河街道沿いに西入口から古町・中町・荒町と並び、東端の荒町より北に出る道に新町、南方に裏町があった。中央の中町に本陣(1)・脇本陣(1)・御用場と問屋二軒・旅籠五軒があった。さらに会津藩の代官所や御藏もあり、当地方の経済・行政の中心地となっていた。また、猪苗代湖の舟運の拠点でもあり、秋山港で荷揚げされた荷物は福良宿に集められ、白河街道を通って奥州街道で各所に送られた。
「東講商人鑑」では本陣武藤秀之助、脇本陣武藤儀右衛門、問屋宗像彦右衛門・利右衛門、御用場武藤家などがいた。
天保4年(1833)長谷川兵夫によって創始された福良焼は湯呑・徳利・皿など日常陶磁器を生産し、明治初期が最盛期であったが、大正5年に廃窯になった。
旧白河街道を歩くと、本陣跡入口の表示もみられ、古町・中町・荒町などはバス停留所の名称にもなっていた。茅葺家屋の時計屋さんも見られ、妻を街道に向けた町並は宿場町当時の町割りのままで、鉄板葺きを茅葺と見ると町の雰囲気も宿場町当時とあまり変わってないと思われる町並だった。
町並み指数 30
参考文献
  角川日本地名大事典  角川書店  角川日本地名大事典編纂委員会  昭和56年
  福島県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1993年 


湖南町福良の町並

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湖南町福良の町並

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