川俣町の中心部は福島県北東部、阿武隈川の支流広瀬川の上流域に位置し、県庁所在地より南東約20kmの所。 川俣村は明治8年に町小綱木村と町飯坂村の2村が合併して成立したもの。町小綱木村は延宝元年(1673)小綱木村が町小綱木村・在小綱木村・新田小綱木村に分村。町飯坂村は享保2年(1717)飯坂村が町飯坂村と在飯坂村に分村したもの。 町飯坂村・町小綱木村ともに、近世はじめは幕府領、宝暦5年(1755)会津藩預り地、明和元年(1761)からは幕府領。 村高は飯坂村として、在飯坂村も含めて「天保郷帳」2,025石余、「旧高旧領」1,981石余。町小綱木村は「天保郷帳」615石余、「旧高旧領」608石余。 元禄16年(1703)町小綱木村に川俣陣屋が設置され、小手郷19ヶ村を支配した。 南北に通る三春への街道と、東西に延びる富岡街道の交わった辺りを中心に、街道に沿って町場が形成されていた在郷町であった。養蚕の盛んな地域で、町飯坂村・町小綱木村ともにその中心として織物と商業で栄えていた。 町飯坂村の文化年間(1804〜18)の家数334軒で、うち百姓35軒、機織95軒、染屋9軒、繭商7軒、豆腐屋7軒、医師6軒など60種の職業を数えた。 町小綱木村の文化7年(1810)の家数289軒・人数1,380人。 古くから養蚕製糸業が発達し、川俣絹が特産物として知られていて、京都や伊勢の商人が、川俣に買い付けに訪ねたと云う。文政年間(1818〜30)には平絹生産の最盛期となった。 今回訪ねたのは、三春への道と東西の富岡街道沿いの町並である。瓦町は旧町飯坂村、鉄砲町と新中町は旧町小綱木村である。共に旧街道に沿って伝統的な様式の町屋が点在している。2011年3月の東北大震災の被害を被った地域と思うが、倒れて取り壊されたような跡も目立たず、修復されたいて良い町並が展開していた。でも町役場が他の地域に移転中とあり、家が壊れなくとも放射能の問題で避難している方が多いのは大変困った問題です。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
新中町の町並 |
新中町の町並 |
新中町の町並 |
鉄砲町の町並 |
鉄砲町の町並 |
瓦町の町並 |
瓦町の町並 |
瓦町の町並 |
瓦町の町並 |
瓦町の町並 |