軽米町は岩手県の最北部、県境の町で北山山系北部の中央に位置する。 軽米村の江戸期初めは盛岡藩領、寛文5年(1665)からは八戸藩領軽米通軽米名主組に属す。 村高は「正保郷村帳」581石余、「貞亨高辻帳」781石余、元禄10年(1697)「郷村御内所高帳」では軽米通村と見え1,300石余、「天保郷帳」1,189石余、「旧高旧領」454石余。もと小軽米村とともに一村であったが、寛文年間(1661〜73)に分かれて2ヶ村になり、「旧高旧領」では当村とは別に村名が記されている。 寛文5年(1665)に八戸藩領となるに伴い軽米通代官所がが置かれ、九戸郡西部の行政・経済の中心となり、在郷町として軽米町が形成された。只、正保年間(1644〜48)には既に町場化して軽米町と呼ばれていて、軽米町は蓮台野・荒町・仲町・本町・大町・新町・元屋町で構成されていた。そして在郷商人に元屋(淵沢氏)・成田屋(千葉氏)などがいた。 内陸部の福岡町(現二戸市)と久慈を結ぶ通称九戸街道(福岡町ー高家村ー外目川を経て軽米町ー中軽米ー上館村ー小軽米ーーー久慈)が軽米町を通っていたので、軽米町は宿駅を兼ね、馬宿・鉄荷宿が置かれていた。また、八戸へ向かう道は新町で九戸街道から分かれて、八戸城下に向かった。 この地は地形や気候から水稲耕作が困難で、農業は畑作が中心となり、麦・栗・稗・大豆・蕎麦などが栽培され、商品作物に漆があった。また、この地は砂鉄の産地で、鉄産業が農業生産力の低さを補っていて、年貢にも金目高があり、100石に対して砂金125匁5分を納入した。 江戸期は馬の飼育が盛んに行われたが、主として農耕馬であったが、第一次大戦後は軍馬の生産が主になった。養蚕も江戸末期頃からはじまり、昭和20年代までは続いたが今では全て姿を消してしまった。 交通網は鉄道がこの地を全く通らなかったので、全てバス・ハイヤー・トラックに頼った交通で、地域の発展は阻害されたと思われる。 今、町の中心部を歩くと、看板建築を主とした町並になっている。どうしてこのような町並になったか調べているのだがハッキリと判らない。一番に考えられるのは大火だが、久慈の大火が原因とも思えないし。何れにしても何かの原因があると思われる。でも、少し寂れた看板建築の町並も捨てがたい風情を醸し出している。この看板建築の町並は宿駅・宿場町としての面影は残っておらないが、在郷町としてみると面影があると見るべきだろう。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 岩手県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
軽米の町並 |
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