上山は上山藩の城下町であり、羽州街道の宿場町であるとともに,米沢へ通じる米沢街道の分岐点であり、上山温泉の湯町としても発展した。 上山は元和8年(1622)最上氏の改易により、松平重忠が入部して4万石の上山藩は成立した。寛永3年(1626)に蒲生忠知が入り、同5年(1628)には土岐頼行に代った。土岐氏はその後3代65年間の在城で城郭と城下町の整備に力を注ぎ近世上山の発展の基礎を築いた。元禄5年(1692)幕府領となって、上山城は破却されたが、同年金森頼時が入部、同10年(1697)再び幕府領。同年松平信通が入部してそのまま明治まで松平氏の支配が続いた。 城の東を羽州街道が通り、それに沿って町人町が形成され、武家町は主として城の西と北に配置された。城下への各出入り口には足軽屋敷や寺院を置いた。正保城絵図によると、本丸・二の丸は二重の堀で囲まれ、大手門は東に開いている。 上山温泉は16世紀の中頃、僧月秀上人が鶴脛(つるはぎ)の湯を発見したと伝えられる。寛永元年(1624)、藩主松平氏が湯町の「下の湯」を観音寺門前に移し、これを共同浴場にしたことが、温泉の発展に繋がった。 その後城下町の整備により湯町が家中地になり、温泉場が二日町・十日町・新町に移って発展し、各町の共同浴場の開設とともに、湯持宿屋も増加した。宿場町であり、近郷の農家は勿論、他領から集まる湯治客も多くおおいに発展した。明治に入り家中屋敷区画が撤廃されて、温泉場は十日町などより再び「湯町」に移動した。 城下の町人町は羽州街道に沿って形成され、南から二日町・十日町・北町などが商業の中心地として発展し、中でも十日町には宿場町・商業地の機能が集中し、問屋・本陣・高札場があり、定期市も開催された。 今、上山市には古い伝統的な家屋は一部しか残っておらないが、その一つに鶴脛町の武家屋敷群。湯町の温泉旅館群そして十日町の商家群である。 武家屋敷群は4軒の茅葺き屋根の武家屋敷が残っていた。共に曲屋で広大な敷地にしっとりと建っている。殆どの家は管理はされているが無住になっているのが気にかかる。湯町の旅館街は比較的小型宿屋の温泉旅館街であった。中には営業されていないが、明治に建てられたと思われる旅館建物も健在だった。 そして町の中心地の十日町の商家群は街道に沿って展開している。アーケードは無いが商店街になっているので伝統的な建物の全容が見えないが、各所に点在していた。 山形県の歴史散歩 山川出版社 山形県高等学校社会科教育研究会 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 山形県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
湯町の町並 |
湯町の町並 |
御井戸丁の町並 |
湯町の町並 |
鶴脛町の武家屋敷街 |
鶴脛町の武家屋敷 |
鶴脛町の武家屋敷 |
十日町の町並 |
十日町の町並 |
十日町の町並 |
十日町の町並 |
十日町の町並 |