上山市楢下は山形県の南東部、蔵王連山から西南西約10km、上山盆地の南縁部、金山峠から流れ出る金山川と須川の合流点に位置する。 楢下村の江戸はじめは最上氏領、元和8年(1622)からは上山藩領。村高は元禄11年(1698)の川西村々差出帳、「天保郷帳」、天保13年(1842)の村山石高帳ともに524石余。 楢下村は羽州街道の宿場で、宿駅が設けられたのは慶長7年(1602)である。宝暦7年(1757)の洪水で全村流出。その後の宝暦8年(1758)の村絵図によると、南から新町・下町・横町・上町があり、10数軒の旅籠屋が描かれている。新町は下町から洪水後に移ってきたものである。 下町が宿の中心で本陣・脇本陣が置かれていた。楢下村は出羽国最南端の宿場町で、本陣を世襲した斉藤利兵衛家はもと最上氏の家臣で、出羽・陸奥両国の境目預りを勤めたが、のち帰農して、その子孫が楢下宿本陣・問屋を勤めた。下宿には他に脇本陣・旅籠屋があり、上町には問屋鈴木嘉兵衛家があり、下町の斉藤家と2軒の問屋で、月の前半と後半に分けて勤めていた。 羽州街道の難所金山峠を控え宿泊する旅人が多く、20軒余の旅籠屋があり、本陣は塩屋、脇本陣は滝沢屋・宮地屋と称し、庄内屋・秋田屋はそれぞれ庄内藩・秋田藩の定宿であった。 宝暦11年(1761)の家数63軒・人数446人、馬25疋。家数は天明6年(1786)74軒、嘉永5年(1852)93軒。 宿場はしばしば洪水の被害に遭い、その度に移動を繰り返したため、町並は街村形でなく、コの字型になっていた。(明治になり新道が造られたため現在はロの字型)。 パンフレットや案内板などに本陣や脇本陣・問屋や酒屋まで克明に記載されていて、茅葺屋根の家屋と共に宿場町当時の面影を色濃く今に伝えている。 只、茅葺民家で残っている家は全て無住か見学用に公開されていて、生活感がない博物館的な茅葺屋根の家屋だったのがチョット気になる。ついでに気になることをもう一つ、それはこれだけ歴史ある古い茅葺屋根の民家が残る楢下宿、当然重要伝統的建造物群保存地区に選定されているものと思ったが、そうで無かったことにびっくりの町並探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 山形県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 山形県の歴史散歩 山川出版社 山形県高等学校社会科教育研究会 1996年 |
楢下の茅葺き民家(案内や休憩施設) |
楢下の茅葺き民家 |
楢下の茅葺き民家 |
楢下の茅葺き民家 |
楢下の茅葺き民家 |
楢下の町並 |
楢下の町並 |
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