河北町谷地の町並み 
谷地辛
地図


谷地辛の町並

 河北町谷地は山形県中央部の山形盆地北西部、最上川中流域左岸に位置する。
近世初めは最上氏領、元和8年(1622)からは幕府領と新庄藩領の分かれる。近世、谷地はいくつかの村に分かれたが、その内の町部の総称とされ、村山郡の中で山形に次いで大きな商業地として栄えた。
幕府領は新町村・大町村・前小路村・荒町村・上工藤小路村の町場からなり、新庄藩北口村・下工藤小路村は新庄領下の上谷地郷・下谷地郷の中心地として賑わった。
谷地は紅花栽培で有名な在郷町で、最上紅花生産の中心地であった。元文3年(1738)頃「谷地花買仲間」として25人がおり、これから集荷する荷主問屋も山形につぐ有力荷主が多かった。谷地は最上川水運をひかえ、産業・交通・立地に恵まれ、山形につぐ商業地として発展し、江戸後期には俗に谷地千軒といわれるほど繁栄した。
谷地は村山西部街道(河西横山道)という街道沿いの町である。最上川東岸を通る本街道である羽州街道に対し、西岸を通る脇街道が通っていた。寒河江の越井坂を出て谷地を通り大石田の横山に至る街道のことで、谷地はこの街道の宿場町的性格を持っていたが、公的な宿駅でないので、人通りも多くなく商人宿として2軒があったのみである。
江戸期に分村した谷地は明治20年に合併し谷地村となり字名を付けた。旧大町村を甲(こう)、旧前小路村を乙(おつ)、旧新町村を丙(へい)、旧荒町村を丁(てい)、旧松橋村を戊(ほ)、旧上工藤小路村を己(き)、旧下工藤小路村を庚(かのえ)、旧北口村を辛(しん)とした。
そして今回訪ねたのは、江戸時代には北口村と云われた辺りで、今は河北町谷地辛(しん)である。
今、古い町並は町役場の北で旧村山西部街道沿いに展開している。鈴木家・細谷家・鈴木家・国井家・竹谷家・細谷家などの伝統的な様式の大型で重厚な家屋が連なる。紅花などで富を得た商家だろう。白漆喰塗込めの土蔵は町並景観に大きく寄与していた。
町並み指数  40
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和56年
   山形県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1990年

谷地辛の町並

谷地辛の町並

谷地辛の町並

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谷地辛の町並

谷地辛の町並

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