岩沼市の町並 
中央1丁目・中央2丁目
地図


中央通りの町並
 江戸時代の岩沼郷は奥州街道が南北に縦貫する宿場町、鵜ヶ崎城(岩沼城・岩沼要害)の城下町、竹駒神社の門前町として栄えこの地の中心地であった。
天正年間(1573〜92)泉田重光が鵜ヶ崎城に入り、その後石田宗朝ら12氏の支配を経て、寛永13年(1636)から古内主膳、万治3年(1660)田村宗良、天和元年(1681)古内造酒祐を経て、貞享3年(1686)以降古内広慶の子孫の拠るところとなった。
鵜ヶ崎城(岩沼城)は岩沼市街の中央西側、岩沼駅西側の丘陵地にあって、岩沼が城下町・宿場町として町割りが行われたのは、寛永年間(1624〜43)古内氏知行の時と言われている。寛延元年(1748)の岩沼絵図によると、岩沼城の東方奥州街道の沿って北から北足軽町・北町・中町・南町・新町・南足軽町が並んでいる。町家は北町・中町・南町・新町の両側にあり、町屋の西裏側の岩沼城にかけて武家屋敷となっている。武家屋敷は町屋の東裏と城の北方にも連なり、南・北足軽町と合わせて町屋を囲む形となっている。
岩沼宿は江戸浜街道が奥州街道から分岐し、仙台城下から4里少しと、城下に出入りする旅人にはころあいの宿であった。治安交通運輸を司る検断は北町・中町・南町の3ヶ所に置かれ、名取郡南方大肝煎の下に直属した。南町検断屋敷(現中央一丁目)は八島家、中町検断屋敷(現中央二丁目)は相原家、北町検断屋敷は佐藤家で、三検断職とも世襲で幕末まで続いた。そして本陣は南町検断が勤め、脇本陣は中町検断が勤めた。
又、岩沼では仙台藩領中最大の馬市が立てられていた。期間は竹駒神社の初牛(2月8日か9日)から100日間であったが、寛文年間(1661〜73)から50日に短縮し、残りは仙台城下国分町で市立することになった。
奥州街道や東北本線が通る近代都市になったが、旧街道筋には数は少ないが古い伝統的な様式の店蔵や土蔵が点在し、街道町の名残を色濃く残し、造り酒屋や呉服屋なども健在であった。
この町の店蔵も他の町と同様で、切り妻造り平入り2階建て、屋根庇を設け2階正面は観音開き防火扉窓を備え、ナマコ壁を多用していた。
町並指数 40
参考文献   
  宮城県の歴史散歩  山川出版社  福岡県高等学校歴史研究会  1988年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
  宮城県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1987年  

中央通りの町並

中央通りの町並

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中央通りの町並

中央通りの町並

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