いわき市小名浜は福島県の南東端、浜通り南端、太平洋に面してにいる。 江戸期は米野村・中島村・中町村・西町村の4ヶ村の総称。小名浜4ヶ村の近世初めは盤城平藩領、延享4年(1747)から幕府領、一部の村で一時常陸笠間藩分領となるが、大部分は幕府領で明治を向かえる。 小名浜4ヶ村は宝永7年(1710)の御巡見様案内帳には、家数1,283・人数6,310とあり、正徳元年(1711)の諸品覚書には家数1,294・人数6,086とある。 幕府領となった延享4年(1747)の村明細帳によると、4ヶ村合わせた小名浜は高1,677石余、家数1,361・人数6,237とある。その内訳は米野村の高197石余・家数200・人数847、馬4。中島村は高293石余・家数535・人数2,475・馬9。中町村は高248石余・家数354・人数1,646・馬9。西町村は高936石余・家数271・人数1,269・馬21。 小名浜湊は小名川河口の東方の米野村にあり、寛文11年(1671)河村瑞賢は東廻り航路を策定し、小名浜湊もその寄港地とされた。幕府は浦役人を任命し、磐城平藩は米野村の丘上に津奉行屋敷を設け、浜奉行をおいた。 小名浜湊の、宝永7年(1710)には猟船59・御手船10・商人船14とある。延享3年(1746)には猟船97・荷積船14とある。 米野村東坪には、幕府御城米河岸・磐城平藩河岸・湯長谷藩河岸・三春藩河岸があり、それぞれの河岸には蔵と番人の住居が建てられていた。また、中町村には棚倉藩の穀蔵が作られていた。 小名浜湊は年貢米や諸荷物の移出入を中継する商港と、鰹漁や鰯漁・鯛漁を主体とする漁港の両面を備えていた。 慶応4年(1868)の戊辰戦争では、西軍の上陸地点となり、多くの西軍の兵士が小名浜湊に上陸し、さながら横浜のように賑わったという。 又、安政3年(1856)白水村で石炭が発見され、同5年幕府から石炭3000俵の納入を命じられた片寄平蔵は小名浜湊から海路江戸に回漕した。これ以降小名浜湊は石炭の積出拠点となり、小名浜湊は益々栄えた。 明治30年日本鉄道盤城線(現JR常盤線)の開通により、石炭は鉄道輸送に切り替えられ、小名浜湊の海運業が急激に衰退した。商業的機能が薄れたが漁業的な機能が増えてきた。 現在は、国際貿易港・外材輸入港としての商業港の色彩が強いが、港の東部は漁業区として水産物の水揚げも多い。 2011年の東北大震災による津波の2年後に、この町並を訪ねた。海岸近くの港湾施設や港に近い所は津波の被害を大きく受けていた。海岸から少し離れた所にあるホテルに泊まったが、ここでも約10cm程の海水が館内に入り水浸しだったとのこと。 古い町並としては殆ど残っておらないが、伝統的な様式の建物が海岸より少し山手に残って居た。殆ど津波の被害を受けてないようだが、あちこちに更地があるので、今度の震災で壊れたので、取り除かれたのだろうと思いながらの探索だった。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
小名浜元分の町並 |
小名浜中坪の町並 |
小名浜中坪の町並 |
小名浜中坪の町並 |
小名浜古湊の町並 |
小名浜古湊の町並 |
小名浜古湊の町並(一部ボカシをいれました) |
小名浜古湊の町並 |
小名浜古湊の町並 |
小名浜古湊の町並 |