一関市大東町摺沢の町並 
大東町摺沢
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大東町摺沢の町並
 摺沢は一関から摺沢・大原を通って高田今泉へ向う今泉街道と千厩に向う千厩街道の交わる宿場町であった。
江戸時代初めは仙台藩領、万治3年(1660)支藩一関藩領、寛文11年(1671)仙台藩領、天和2年(1682)からは田村氏一関藩領で明治を向えた。
寛永19年(1642)の検地帳によると本百姓79(内町住居23・村住居56)。明和9年(1772)の家数357(封内風土記)。「安永風土記」によると家数367・人数1,783(男982・女801)とある。
宿場であった摺沢の規模は本町1町20間・足町1町35間、村住居305人・町住居59人。文化14年(1817)の村絵図によると、家数316・人数1,855。天保14年(1843)人数帳によると家数369・人数1,556(男843・女713)。産物は煙草・紅花・紙がある。
明治18年の家数331・人数2,029(男1,050・女979)。大正8年の家数438・人数3,083となっている。江戸時代の人数で極端に男女差があるのは、生まれた子供の間引きによるもので、男女とも間引きされたが特に女が多かったことに由来する。幾度となく襲う大飢饉により間引きも必要悪だったのだ。江戸中期に赤子養育仕法が施行され、間引きは少なくなったが、それでも女に限っては行われていた証拠である。
大正14年に摺沢駅が開設されて以来、摺沢は町の表玄関としての機能を持ち、大原方面への物資の流通に重要な役割を果たし、交通・経済の中心地となった。
今町並は旧今泉街道にそって店蔵や土蔵が多数残り、宿場町時代の名残を今に伝えている。平入りや妻入りの店蔵が混在し、切り妻造り妻入り2階建ての民家が連なっていた。
町並指数 40
参考文献   
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和60年
  岩手県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1990年  

大東町摺沢の町並

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