近世の猿沢は江刺方面から、この地方の玄関口として交通の要衝だったが、鉄道が開通してからは松川や摺沢が表玄関となり、この地は寂れてしまった。 江戸期は猿沢村といい仙台藩領で推移している。明和9年(1772)の家数262(封内風土記)。「安永風土記」によると家数297、町場は2町44間。村居住243軒に対して町居住は54軒。人数1,556(男843・女713)。産物は煙草・紅花。文化元年(1804)の御役帳によると職業は大工4・鍛冶2・染師3・山立漁師23などであった。明治16年の家数316・人数2,153。 大正8年の家数408・人数2,863。大正14年の人数2,889・昭和14年の人数3,151とある。昭和12年の統計を見ると全戸数507戸のうち農業371・商業41・工業30となっている。 町並は江刺から摺沢方面への道筋で、その街道に沿って展開し、妻入りの土蔵造りの民家が点在していたが、数は少なく、町全体が寂れたような感じだった。 (江戸時代にはこの地方では赤子の間引きが常習化していて、特に女子の間引きが多く、男女差が大きい。江戸時代中期には赤子養育仕法により、間引きは禁止されていたのだが) 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 岩手県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
大東町猿沢町分の町並 |
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