石狩市浜益区濃昼の町並
浜益区濃昼
地図


浜益区濃昼の旧木村家住宅

 石狩市浜益区濃昼(ごきびる)は北海道北西部、石狩市浜益区の最南端、濃昼川の河口右岸(北側)に位置する。河口左岸(南側)は厚田区濃昼とあり、ややこしい地域である。
江戸期は西蝦夷地のうちマシケ場所、後にハママシケ場所に属した。南のアツタ場所との境界は濃昼川であるが、河口一帯を濃昼と云っていたようである。
明治2年に濃昼川北側が石狩国浜益郡尻苗村の一部となり、南側が石狩国厚田郡濃昼村となる。
今回訪ねたのは、明治期の浜益村尻苗村。ハママシケ場所の最南端で、寛政2年(1790)マシケ場所とハママシケ場所に分けたときのハママシケ場所の知行主は下国兵太郎、場所請負人は阿部屋善八であった。
文化4年(1807)幕府領となり「へロクカシル」に役人が配置された。文政4年(1821)松前藩領となる。嘉永6年(1853)と推定されるハママシケ場所の家数59・人数195。産物は鰊・イリコ・アワビ・鮭。同年の生産額は鰊890石、イリコ・白干約1800斤。このころの運上金は先買い金150両、後買い金110両、他に差荷料金7両、積金5両永200文であった。
「石狩国地誌提要」によると、尻苗村の家数9・人数47。明治20年の人数は57人。明治24年には家数67・人数283・人夫44。明治33年の家数116とある。
集落の端に大きな番屋が残っていた。明治33年建築の旧木村家住宅。チョット洋風な部分もある変わった建物。集落の木村家と反対の端にも大きな番屋の建物が残っていた。
そして集落内には明治20年に浜益郡尻苗尋常小学校濃昼分教場として開校し、昭和20年に浜益村立濃昼小学校・中学校となった建物も健在だった。
鰊が来遊しなくなって約60年、鰊で栄えていた当時の余韻が色濃く残る集落と思えた。                               
町並指数 40
参考文献
    角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年
    日本の地名北海道  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  2003年



浜益区濃昼の町並

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浜益区濃昼の旧濃昼小学校・中学校

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