今別町今別は津軽半島の突端に位置し、北は三厩湾に面している。 江戸期は弘前藩領。元禄3年(1690)には後潟組に属し、村位は下。 村高は「正保高帳」49石余、「寛文高辻帳」530石余、「貞享4年検地水帳」633石余、「旧高旧領」647石余。 今別村は湊の機能が重視され、弘前藩より領内九浦の一つに指定され、町奉行が置かれ、今別町として把握されることもあった。 南方の山地は良質の檜材を産出し、早くから藩の管理下にあり、今別御材木奉行がいた。 今別村は材木の積出港であるとともに、松前街道の宿駅でもあり、水陸両方において交通の要地であった。 でも、隣接の三厩港が盛んになり、寛保年間(1741〜44)の大津波により、季節風を防いでいた正行寺前の岬が消滅してしまい、港の機能が半減し以後港勢の不振に陥ったという。 天明8年(1788)の「東遊雑記」には「今別は50余軒の町なれども、家作り大抵にて、町の両端に船入りありて、百石積くらいの船七・八艘見えたり……」とある。寛政2年(1790)の「北行日記」には、家53軒、14・5年以前迄は300軒の家数にて奴館迄もありて賑わいける所、卯年饑渇以来大に減ず、町奉行あり」とある。享和2年(1802)の伊能忠敬「測量日記」によると、家数67。また、嘉永3年(1850)の松浦武四郎「東奥沿海日誌」には人家60軒斗…」とある。 明治初年の家数111、北は今別港に臨み南に小阜あり……」。明治12年の「共武政表」によると家数141・人数787・馬56・日本型船9とある。 古い町並は旧国道280号線(松前街道)沿いに展開している。新しく国道280号線が町並の南側をバイパスとして通ったので、古い町並みがそのまま残った筈だが、大きな旅館建物や大きな商家建物が僅かに残っていた程度で、古い町並らしきものは無かったのは残念。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 青森県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
今別の町並み |
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