飯豊町の散居村は山形県南部、置賜地方、最上川上流置賜白川の左岸に位置する。行政的には飯豊町中・飯豊町萩生。 共に江戸初期には上杉氏領、慶長6年(1601)からは米沢藩領。村高は文禄3年(1594)の蒲生高目録では中1,454石余・萩生3,031石余。「天保郷帳」では中1,627石余・萩生2,129石余。「旧高旧領」では中3,235石・萩生3,903石余。家数・人数は寛政12年(1800)には中93軒・539人。寛政元年(1789)萩生191軒・1,096人とある。 当地は県内第一級の豪雪地帯で、根雪期間は12月上旬から四月上旬に及び、また4〜10月期にはたった一日で、同期の総降雨量の1/4が降ることも珍しくない程、降雨分布が不均等で、夏季多雨の割りに渇水となることも多い。 近世中期以降、荒廃地の増大、人口の減少など農村の疲弊は著しかったが、農村復興政策として米沢藩は他藩領からの百姓の移住を図り、長岡藩領内法華門徒の入植者が相次いだ。 飯豊山を源とする白川流域の扇状地に約1200haにわたって広がる田園散居集落である。水田の中に点在する家・屋敷を屋敷林が囲っている散居村風景は見事なものである。冬期の風雪から住居を守るために考え出された知恵であり、農村原風景の最高傑作と思う。 中地区の展望台は天養寺観音堂近くのホトケ山展望台があるが、登り口にも、途中の山道にも表示が無く、道を聞くにも誰もおらない。多分大丈夫だろうと不安を抱えながら、息を切らせて山を登り、見事な展望が開けたときの感動は素晴らしかったが、表示が欲しいものである。 次に訪ねた萩生地区の展望台は、ドンデン平ユリ園の中を自動車で通って展望台近くまで行け、その上車の駐車するスペースまである散居村展望台であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 山形県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
中地区の散居村 |
萩生地区の散居村 |
萩生地区の散居村 |
萩生地区の散居村 |
萩生地区の散居村 |
萩生地区の散居村 |
萩生地区の散居村 |
萩生地区の散居村 |
萩生地区の散居村 |
萩生地区の散居村 |