弘前は津軽地方の政治・経済・文化の中心として発展した城下町である。 大浦為信は天正16年(1588)に津軽を統一し、豊臣秀吉から支配を許され、津軽氏と名乗った。初代藩主津軽為信は居城を大浦城から堀越城へと移し、更に政治・経済の中心地として高岡に移転を計画した。その後、城郭と武家町・町人町の建築が本格化したのは、2代目藩主信枚の慶長15年(1610)からである。尚、高岡から弘前に改称されたのは寛永5年(1628)と云われている。 寛永末年頃(1643)の津軽弘前城の絵図によると、城下は城郭を中心に城東・城北・城南・城西の4地域に分けられている。今回訪ねた武家町は城北地域になるので、主としてこの地域について記載する。 正保3年(1646)の津軽弘前城の絵図では、城北は足軽町・歩者町・小人町・禰宜町および町屋に町割りされている。正保年間(1644〜47)には城下に武家屋敷537軒があった。その後の慶安2年(1649)の弘前古御絵図によれば、城北には亀甲町・御小人町・博労町・禰宜町があり、下級武士や馬喰、神官、屋号のある商家(亀甲町)が居住し、博労町には牢屋敷が設置されていた。この城北地域の町の構成は幕末まで大きな変化はなかったが、藩士土着令による藩士の移動と土着令廃止による移動で、比較的身分の高い藩士も町内に屋敷を持つようになった。 弘前城の北側、現在の若党町・馬喰町・小人町の辺りは仲町と総称され、御家中屋敷と呼ばれていたところで、今でも武家屋敷の遺構が明確に残り、板塀やサワラ垣を配し、黒塗りの医薬門と合わせて武家屋敷の旧姿を現代に伝えている。 公開されている国重文の石場家住宅・県重文の旧岩田家住宅はその場所で建築されたものであるが、公開されている旧伊東家と旧梅田家は市内にあったものを移築したものである。 青森県の歴史散歩 山川出版社 青森県高等学校地方史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 青森県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 東北 小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2003年 |
仲町の町並 |
旧岩田家住宅 |
仲町の町並 |
仲町の町並 |
仲町の町並 |
仲町の町並 |
仲町の町並 |
亀甲町の石場家住宅 |