平川市金屋は津軽平野の東南端、浅瀬石川南岸の台地上に位置する。 金屋村の江戸期は弘前藩領。村高は「正保高帳」125石余、「貞亨郷村帳」1,035石余、「貞亨4年検地水帳」494石余、「寛保高辻帳」1,035石余、「天保郷帳」435石余、「旧高旧領」583石余。文化5年(1808)の大光寺組村々高反別人別戸数調によると、田41町余(高318石余)、畑36町余(111石余)、家数62・人数340とある。明治4年の記録に田45町余・畑屋敷35町余、家数83・人数480、馬72と記載されていて、明治12年の「共武政表」によると家数93・人数527、馬66とある。 明治39年にリンゴの本格的な栽培がはじまり、共有林を開墾して園地を造成してリンゴ畑が増え、大正15年には金屋リンゴ出荷組合もできた。 集落は西部にあり、上松元・中松元・下松元・上早稲田・中早稲田・下早稲田・……などがある。 今回訪ねた金屋中松元や下松元の町並は「藏並通り」として、藏並を巡るツアーやライトアップなどのイベントも行われているそうですが、訪ねた時に町並を見て廻っている方は誰も居らず、通りを歩いても車とすれ違っても人とは出会わなかったように思う。 平川市の尾上地域には約300棟の蔵があり、金屋地区には78棟の蔵がある。すべて個人の農家蔵でその中の多くが登録有形文化財に指定されているようだ。 建てられた時期は江戸末期から昭和の終戦後までと幅が広い。江戸末期から明治期は庄屋などの豪農が建てたものだが、大正期になり農業とリンゴ園の兼業農家が、戦後は農地解放で土地を手に入れたリンゴ園との兼業農家が建てたものと、NPO法人尾上藏保存利活用促進会の方が仰っていました。 意匠を凝らした藏も多く、デザインを競っていたことも伺える藏造りの町並だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 青森県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
金屋中松元の町並 |
金屋中松元の町並 |
金屋中松元の町並 |
金屋中松元の町並 |
金屋中松元の町並 |
金屋中松元の町並 |
金屋下松元の町並 |
金屋中松元の町並 |
金屋下松元の町並 |
金屋下松元の町並 |