八戸市の町並 
小中野・湊町
地図


小中野の町並(旧遊郭の建物??)
 八戸市は秋田県の最東部、馬淵川の河口に位置する城下町であるが、今回訪ねたのは城下町でなく、遊郭として栄えていた小中野地区と新井田川を隔てた湊町の造り酒屋の町並である。
新井田川河口左岸に小中野村が、右岸に湊が位置する。共に江戸はじめは盛岡藩領だったが、寛文5年(1665)からは八戸藩成立で八戸藩領となる。
小中野村は「正保郷村帳」99石余、「貞亨高辻帳」99石余、「元禄10年高帳」420石余、「天保郷帳」312石余、「旧高旧領」355石余。元禄3年(1690)の御領内巡見覚帳では家数38とある。元禄16年(1703)に刑場がこの地に置かれ、明治維新迄続いたという。明治初年の「国誌」に家数280とあり、地内の状況を「村勢稍富麗にして奴楼を設け、酒茶欠所なく四時遊客雑沓の所なり、……また湊川橋本より北に通るを横丁と云、南に入るを南横丁云。農家なり漁戸あり、ともに湊川に沿へ土地下の下、田少し。村民商漁を専とし、又北海道に出傭する者多し」と記す。
八戸の遊郭の起源は江戸時代と云われ、東廻り航路の船乗りが八戸湊に寄港することで、東北屈指の歓楽街として小中野新地は隆盛を極めていたそうだ。
紅灯街は明治28年に新地が開かれ、小中野遊郭が賑わいその全盛期は明治から大正期で、今の小中野8丁目のクランクになった辺りから西の浦町にかけてが遊郭の中心地で、貸座敷が39軒・娼妓160人ほどいたそうだ。
湊町は江戸期には浜通村と云われ、正保4年(1647)の南部領内総絵図には浜通村として89石余で全て畑とある。元禄10年(1697)の郷村御内所高帳に浜通村として高425石余とある。浜通村は本村として湊村があり、白金浜村・鮫村で構成されていて、八戸湊は馬淵川・新井田川の河口から東に位置する鮫湊・中央の海岸にある白金浜の湊・西の河口に湊があり、この三つの湊が複合的に共存して八戸湊・八戸浦を形成していた。
八戸湊には廻船が入湊し東廻り航路の寄港地であった。また八戸浦では鰯漁業が盛んに行われた。
今、小中野の旧遊郭跡を歩くと、当時の建物が僅かに残っている。昭和33年の売春防止法施行後、飲み屋街に転向したところも、今は寂れていて、見るも哀れである。そんな中で旧遊郭だったところの端に「新むつ旅館」という旧遊郭建物があり、それも現役の旅館で健闘されていた。
湊町には造り酒屋さんの母屋・土蔵・酒蔵・倉庫などの立派な建物が町並みを形成していた。
町並指数 30
参考文献   
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和60年
  青森県の地名  平凡社  下中邦彦  1982年  

湊町の町並(造り酒屋)

湊町の町並(造り酒屋)

小中野の町並

小中野の新むつ旅館

小中野の町並

小中野の町並

小中野の町並

小中野の町並
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