白鷹町荒砥乙は山形県南部、置賜地方の北端、長井盆地の北部、最上川上流部右岸の河岸段丘上に位置する。荒砥は近世には最上川上流の河岸場として、近代には養蚕の町として栄えた。 荒砥乙(江戸期には馬場村)は蒲生氏領を経て、慶長3年(1598)上杉氏領、慶長6年(1601)からは米沢藩領。村高は文禄3年(1594)の蒲生高目録では1,038石余、「天保郷帳」966石余、「旧高旧領」1,732石余。慶長年間の「邑鑑」では村高1,038石余、家数54・人数294、安永4年(1775)改反別では家数122・人数701、馬29。 馬場村は隣接する石那田村とともに商業が盛んで、荒砥甲(江戸期は石那田村)の荒砥御役屋を中心に、町場が形成され、荒砥町と称され、置賜地方北部、最上川右岸の行政・商業の中心地であった。 文化2年(1805)の下長井村々大概帳では、石那田村とともに荒砥町として三・八の六斎市が立っていた。また石那田村から馬場村に移ってきた大貫吉左衛門は豪商として聞こえた。なお「東講商人鑑」には荒砥として絹糸・真綿・青苧などを扱う12店舗が載っている。 もう少し古い町並が見られるかと訪ねたのであるが、期待に反して古い形式の切妻造りの家屋が少し点在していた程度だった。でも、会津地方で見られたような茅葺民家が見られたのは救いだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 山形県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
荒砥乙の民家 |
荒砥乙の町並 |
荒砥乙の町並 |
荒砥乙の町並 |
荒砥乙の町並 |
荒砥乙の町並 |
荒砥乙の民家 |
荒砥乙の町並 |