函館市の町並
函館市元町・末広町
地図


ベイエリア地区の金森倉庫群の町並

江戸時代、北前船航路の窓口で栄えた松前・江差に次いで、松前藩では箱館を交易港に指定(享保20年(1735))し、本州からの船が松前・江差・箱館以外の港で交易することを禁じていたので、箱館は場所請負人と呼ばれる商人によって繁栄していた。安政元年(1854)に日米和親条約が締結され、箱館は翌2年(1855)下田と共に、薪・水・食糧等の供給港として開港されることとなった。箱館は伊豆の下田とともに開港場になり、幕府は同年箱館奉行をおいた。開港によって箱館は大きく変化した。西洋人の渡来、諸術調所(洋学校)、弁天岬台場、五稜郭築城、洋式造船、キリスト教会など、後進地蝦夷地の一角箱館はにわかに近代文明流入の地となったのである。
明治2年開拓使が設置され、蝦夷地を北海道と改められ、箱館を改名して函館とされた。明治19年北海道庁が新設され、そして北海道庁函館支庁へと行政機構が変容するのに伴って、北海道の行政機関も函館から札幌へと移動していった。
明治初年頃から流入人口の増加に伴い市街地の膨張が顕著になったこともあって、繁華街の中心部は徐々に東に移り始めた。
明治11年と12年に連続して大火が発生した。明治11年には945戸、明治12年には2326戸が焼失した。それで耐火構造、20間道路の建設など区画整理を進め、現在の西区地区の町並の原形はこのときに形作られたもので、レンガ造りの店舗がかなり造られた。
次いで明治40年には12390戸、大正10年には2141戸の焼失家屋の大火が発生し、防火線道路が設けられ、道路の両側に不燃質建造物が建ち並んだ。
そして昭和9年には市内の約半分が被災する大火が発生し、大火後今の陸繋部の市道の殆どはこのときに造られたものである。そして函館駅前の若松町、松風町界隈が繁華街の中心としていち早く復興したことによって、繁華街の東進は決定的なものとなった。
今、元町・末広町などが国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。末広町の金森倉庫群、大三坂周辺、基坂・日和坂周辺、港が丘通周辺など明治から大正期に建った洋館風の建物は道路の石畳と相まって独特の風情をかもし出している。                                
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参考文献
    北海道の歴史散歩  山川出版社  北海道歴史教育研究会  1994年
    角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年
    歴史の町並みを歩く   保育社   高士宗明   平成6年

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末広町のベイエリア地区の町並

元町地区の旧函館区公会堂

元町地区の町並

   元町地区の旧北海道庁函館支庁庁舎

元町港が丘通りの町並

末広町のベイエリア地区の町並
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