五所川原市脇元は津軽半島の北部西側、十三湖の北方で日本海に面する位置にある。 江戸期を通じて弘前藩領。享保12年(1727)に藤代組から金木組に所属が変更になる。 村高は「正保高帳」では脇本村として30石余、「天保郷帳」でも脇本村とみえ40石余、「旧高旧領」では62石余。 集落は海岸に沿って南北に形成され、伊能忠敬「観測日記」によると、享和2年(1802)の家数35軒、また、松浦武四郎「東奥沿海日誌」では嘉永3年(1850)の家数100軒余、吉田松陰「東北遊日記」では嘉永5年(1852)の家数130〜140軒とある。 明治初年の家数174、村況は東に山を負い、田少なく畠多し、土地下の下、依りて食料が足らず、山に入りて木材を採り、海に出て漁釣す、尚足らないものは北海道に渡って雇われ、また常に航海する者あると記載されている(国誌)。当時は大小の船79艘を持っている。 明治22年磯松・脇元が合併して脇元村となり、明治24年の家数224・人数1,268・馬35・船80とある。 この集落を訪ねたのは、集落の歴史や経歴よりも、冬の日本海の厳しい環境に対応した板囲いを見るためである。「カッチョ」と呼ばれる防風柵が家屋の海側に設置されている。板や流木でもって風除けの防風柵を作ったもので、高さが1m程のものから5m位のものまで様々な高さの防風柵が家屋を守っている風景が展開していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 青森県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
脇元の光景 |
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