五戸町の中心部は奥羽山脈の東に発達した標高50〜100m前後の台地の上に立地し、五戸川の中流域、八戸市街から西約15kmの所に位置する。 江戸期は盛岡藩領で、五戸通に属していた。 五戸村はほぼ現市街地が江戸期の町場で、上町と下町に分かれていた。上町は現在の下大町・上大町、下町は川原町である。 「慶安2年(1649)道筋帳」では、奥州街道が南の三戸から五戸を経て北上し七戸に続く。このように奥州街道の往還筋にあたっていたので、宿場としても栄えた。奥州街道は当初は南西の荒町から入り、上大町・下大町を経て川原町へと通じていたが、その後南の愛宕丁から入り、新丁・新町・下大町をへて川原町へ至った。 駅場は当初は川原町であったが、後には新町に置かれ旅客と物資の輸送で繁栄した。 盛岡(南部)藩最大の貿易港である野辺地と城下盛岡を繋ぐ場所に位置し、五戸通の物資の集散地として機能していた。 戦国時代からこの地を支配していた木村氏が、江戸初期からの五戸代官として当地に留まっていたが、延宝7年(1679)に盛岡に移住し、5戸村の五戸館には代官所が置かれ、五戸通36ヶ村を管轄するこの地域の政治の中心地であった。 町の中心街は江戸初期には下町(川原町)であって、高札場も設置され、2の日の三斎市が開催されていた。後期になると市は五戸川を隔てた上町(下大町・上大町)に移り、大町・新町には分限者の店舗が集中し繁栄を極めた。 「邦内郷村志」によると家数520とある。旅籠屋は江戸末期には6軒があった。 嘉永5年(1852)の吉田松陰の「東北遊日記」に「五戸地着の士は60名ばかり、おおむね録は甚だ微なり、村里に散在し、耕を以て生となす。……」とある。 今回の探訪で古くから繁栄していた、旧奥州街道沿い町を訪ねた。古い町並みとは言い難いが、僅かに伝統的な様式の家屋が点在している程度だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 青森県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
![]() 五戸町の町並 |
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