福島市の旧奥州街道福島宿は福島市の中心地、福島城跡(県庁)の西・北側を占める町人町である。城跡は阿武隈川と荒川の合流点北側の県庁辺り。 福島城・福島藩に付いては複雑を極めるので割愛するが、大まかに言うと、近世初期蒲生氏、上杉氏(米沢藩)の支城を経て、本多氏・堀田氏・板倉氏が拠った福島城の城下町。 福島城の西側から北側に沿って奥州街道が通り、宿の機能を持っていた。江戸時代中期以降、城下町は同街道に沿う本通(表通)七町で構成されていた。七町は南の江戸口から、柳町・荒町中町・本町・上町・北南町(北町と南町を併称)・馬喰町と続き、北の仙台口に達する。 福島城の創設は会津の領主蒲生氏の客将の木村吉清が、杉妻城の名を改めて福島城とし、住民や寺院の移転を図り、城と城下の整備に着手したのにはじまる。 本陣1・脇本陣2、問屋場1。元禄16年(1703)の村明細帳には家数640・人数4,261、幕府の御馬宿2、医者9、大工18、鍛冶屋12、染屋17、酒屋48などの職人・商人が見える。市日は1・3・6・8の十二斎市であった。 信夫(しのぶ)・伊達地方の中心地であったから養蚕や生糸の集荷地となり、享保年間(1716〜36)には金町に生糸問屋が22軒もあった。柳町・荒町・北南町・馬喰町には旅籠屋や茶屋が多く、特に北南町には多くの飯盛女が抱えられていた。 商取引の活況は信達養蚕業の発達を中心としたもので、延亨3年(1746)全国有数の飛脚問屋島屋が福島店を開業、次いで十一屋(城下の豪商十一店)・京屋(江戸)・千切屋(近江八幡)が出店し、他に近江屋・西屋・中村等の近江商人も進出し、江戸の三井、大坂の小野などの豪商も出店を開くに至った。 前述の元禄16年(1703)の家数640・人数4,261は福島村全体であるが、大半は城下に居住していた。町方のみでは延亨3年(1746)が家数701・人数3,726。人数を見ると天保3年(1832)5,180、安政4年(1857)5,550と増加している。 今、かっての城下町・宿場町を歩いても当時の面影は殆ど残っておらない。伝統的な様式で建てられた家屋は所々に辛うじて残っているなあという程度の町並だった。それでも土蔵造りや石造りと思われる家屋が少数だが見られたのでまあいいか!!という感じ。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
柳町の民家 |
中町の民家 |
中町の民家 |
荒町の民家 |
荒町の民家 |
荒町の民家 |