深浦町の町並 
深浦岡町・深浦
地図


深浦岡町の町並
 青森県深浦町は青森県西端部、津軽地方の最西端に位置する。
江戸期は弘前藩領。
当地を通る西浜街道(現大間越街道)は弘前藩主初期の参勤道で「慶安2年(1649)道筋帳」では大道とされ、当地より中山峠を経て秋田領に通じていた。そのため江戸初期に於いては人馬の往来も多く、寛文5年(1665)に参勤道が羽州街道に変わるまで当地は西浜街道の要衝の地であった。
深浦は弘前藩の4浦5浦に指定され、寛永12年(1635)頃には深浦湊を一望できる岡町に奉行所がが置かれ、「御仮屋」と称していたが、9代藩主の寧親によって「無為館」と名付けられた。この奉行所の下には湊番所・遠見番所・深浦御蔵が置かれていた。
集落は深浦湾の周辺と段丘上(現岡町)に発達し、隣村へ行くには湾岸沿いよりは御仮屋のある段丘上の道の方が多く利用された。
深浦湊は天然の良港で、風待ち湊として、又、上方と松前航路・下北航路の分岐点であり、河村瑞賢による寛文10年(1670)の東廻り航路、更に同11年(1671)の西廻り航路の開拓によって更なる重要港に位置付された。
特に宝暦年間(1751〜64)以降、松前航路の隆盛によって北前船の入津は飛躍的に増大し町は繁栄を極め、多くの船問屋が生まれた。秋田屋・加賀屋・三国屋・若狭屋・松岡屋・越後屋などであり、株仲間を作っていた。
積荷は大坂や北陸から来る船は、米・酒・荒物・青物・加籠・笘などで、上り荷は魚類・塩引・生ニシン・海草・材木などであった。
深浦村の家数は湊の繁栄と共に増加した。慶安2年(1648)98軒・貞享4年(1687)166軒・宝暦9年(1759)222軒、享和2年(1802)の伊能忠敬の「測量日記」では「町と号す、家270軒余とある。嘉永3年(1850)の松浦武四郎の「東奥沿海日誌」では人家凡300軒斗。
明治2年家数384・人数1,793・馬104。当時の村況は港を隔て東西二区に住す。南の一区は港に沿って浜町と称し、家数146軒。東の区を岡町といい港の東少し地高なる所にあり、家数160軒。農家は浜町・岡町の間及び村端等に55軒、合わせて361軒とある。
北前船の寄港地で多くの船問屋があったとのことで訪ねたが、期待に反して深浦岡町にも、深浦港周辺にも一部を除いて古い町並みは見いだせなかった。只、それらしき家屋は僅かに散見できた程度で、どれもが板張りの家屋であったのは、冬の日本海の厳しさを表していると思っての探訪だった。 
町並指数 30
参考文献   
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和60年
  青森県の地名  平凡社  下中邦彦  1982年
  日本の町並V  平凡社  江田修司  2004年  

深浦岡町の町並

深浦岡町の町並

深浦岡町の町並

深浦岡町の町並

深浦岡町の町並

深浦の町並

深浦の町並

深浦にある「ふかうら文学館」

深浦の町並
古い町並みへ戻る