江差町の町並
中歌町・姥神町
地図

中歌町の町並

 江差町は北海道南西部、檜山地方の南部に位置し、西は日本海に面している。
江戸期は松前藩領だったが、文化4年(1807)から文政4年(1821)は幕府直轄地となり、江差奉行所が置かれ、藩陣屋が設営された。
松前藩の草創期以来 、江差は交易湊として福山(松前)・函館と共に、特別行政地として支配され、それぞれに奉行所をが置かれた。
松前藩にとって、当地一帯の檜樹は重要資源で、檜山番所が置かれ檜山奉行がいた。江差湊は檜の積出湊となり、諸国から木材を求めて多くの船舶が入港するようになり、江差は賑わい人々が集住するようになった。木材による好景気も元禄8年(1695)の檜山の山火事により大きな打撃をうけるが、代わって江差海域周辺は鰊の群来により鰊漁で賑わうようになる。
その後、江差湊は本州と蝦夷地間交易の重要な湊として、函館湊・福山(松前)湊とともに松前三湊の一つとして発展し、北前船の終点としても賑わった。
天明4年(1784)「松前随商録」に「エサシ」市中として16の町名が記載され、文化4年(1807)泰憶丸の江差地図には20の町名が記されている。
慶長15年(1610)近江商人の福島屋田付新助を先達に、寛永7年(1630)頃から近江商人が続々進出して出店を設置、江差は商港としての基盤が確立した。
近江商人の手代や舟子・漁夫などが永住するようになり、江差商人も台頭し、西廻り海運(北前船)の雄飛するようになり、江差にも北前船を持つ船主が現れてきた。
天明(1781〜89)〜寛政(1789〜1801)年間頃には江差港の商権は江差商人に移り、北前船商取引時代にはいり、江差港は繁栄期を迎え、北前船の終焉する明治30年代まで続いた。
繁栄の様子を家数・人数で見ると、天明6年(1786)1000戸・3500人、文化8年(1811)1,060戸・3,173人、天保10年(1839)人数10,000人、嘉永6年(1853)の人数20,000人とあるが、寄留者を加えた場合もあり調査基準は一定していない。
明治に入ってからの家数・人数は明治3年2,236・9,158。明治19年2,479・14,922と増加し、明治33年には寄留者を加え人数が30,000人を越えたと云われる。これをピークにその後は減少を辿り、大正元年には1,734・8,906と急激な減少の一途を辿り、北前船の終焉と鰊漁業の衰退が重なり、江差の繁栄は終わった。
今、江差町中歌町に国の重要文化財旧中村家がある。近江商人大橋宇兵衛によって建てられたもので、その後支配人の中村米吉に譲渡されたもの。
姥神町には横山家が残っている。能登出身の商人横山宗右衛門によって建てられたもの。この二つの建物が江差を代表する商家建物である。
町並は中歌町・姥神町の旧国道筋の両側に、古い町並が復元・修復されて展開している。この旧国道筋を電柱やテレビのアンテナを撤去し、すっきりした町並に整備され「いにしえ街道」と名付けて、観光宣伝に努め観光客の呼び込みに努力されている。「歴史的景観形成建物」なる名のもとに、古い町並を新しく造っていくのは全面的には賛成しがたいが、古い町並が全くなくなってしまうよりはまあ「いいか」という思いの探訪だった。                 
町並指数 50
参考文献
    北海道の歴史散歩  山川出版社  北海道歴史教育研究会  1994年
    角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年
    日本の地名北海道  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  2003年



中歌町の町並

中歌町の町並

中歌町の町並
 
中歌町の町並

中歌町の町並

中歌町の旧中村家

中歌町の町並(右側旧中村家)

中歌町の町並

姥神町の町並

姥神町の横山家

姥神町の横山家

姥神町の町並
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