大仙市刈和野は秋田県中央部南寄り、雄物川と土買川の合流地点の北部に位置する。 秋田藩領。刈和野村の村高は慶長8年(1603)は485石余と推定される。「正保国絵図」の本田当高551石余、「享保黒印高帳」744石余、寛政村附帳」585石余、「天保郷帳」628石余。 享保期(1716〜36)の家数は191軒で、これには侍屋敷が含まれていない。文久3年(1863)び仙北郡西街道村々御高人馬書上帳によると、村高592石余、家数265・人数1,119、馬124とある。 秋田藩は当地域を雄物川の舟運の船着場で、物資の集散地として、また羽州街道(秋田街道)の宿駅など、交通・軍事上、群西部の要地とみなし、渋江峯光およびその配下を侍屋敷を設けて配置。村落支配においても当村を親郷として近隣の高城・寺館尻引・金山沢・今泉・稲沢・……を寄郷として支配した。他に刈和野街道と云われる、刈和野で羽州街道と分かれて雄物川を渡り、大沢郷・雄和町大正寺を経由して、岩谷から本庄に至る出羽山地横断の重要な街道も分岐していた。 明暦(1655〜58)以前は5町あったが、明暦2年(1656)の大火災で5町から3町(二日町・五日町・八日町)に縮小され、本道町・六郷町が畑になり、そして後に八日町も畑になり、2町になってしまった。他に侍町として愛宕町・御指南町・御足軽町があった。 天和2年(1682)宿場に本陣も設けられ、宿場としての機能を整えると同時に、雄物川に面して船問屋もでき、水陸交通の結び目として機能し、物資集散の中心地となり商業の町としても性格も強めていった。享保頃(1716〜36)には2・5・8の九斎市もあったが、江戸後期には六斎市になっている。その変遷は定かでない。 刈和野の町は、在郷町だった地域と、武家町だった地域にクッキリと分かれている。在郷町は伝統行事の大綱引きが行われる広い通りに沿って展開するが、古い伝統的な様式の家屋は余り残っておらず、僅かに土蔵が散見できる程度だ。でも武家町の様相は旧本陣近くの一部であるが、仙北市の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている角館を思わせる光景が見られる。訪ねたのは初秋で紅葉ではなかったが、紅葉時には見事な光景が見られるだろうと想像するだけでもウキウキする通りだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 秋田県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 |
刈和野の町並 |
刈和野の町並 |
刈和野の町並 |
刈和野の町並 |
刈和野愛宕町の町並 |
刈和野愛宕町の町並 |
刈和野愛宕町の町並 |
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