今では想像もできない庄内と越後を結ぶ山街道(小国街道)の要衝の地であった。集落の南の楯山に小国氏の拠城小国城跡があり、江戸時代にはレッキとした街道で、越後国との国境に近いので、庄内藩によって番所が置かれ、小国口関所と云われていた。 元禄15年(1702)の村絵図には、道幅4間の通りの両側に家々が約60戸記されていて、天保9年(1838)巡見使田川組案内帳によると、南北に通じる街道の両側に家が建ち並ぶ典型的な宿場町であったことがわかる。 町並の整備は天和2年(1682)の大火後に行われたと云われ、道路の両側に間口5間から6間を標準とした規則正しい町並が新たに造られた。 宿駅として弘化元年(1844)当時6軒の旅籠屋と3軒の茶屋と一軒の木賃宿があった。 地図を見ても小国の集落を南北に貫いた街道は更に南では細くなり、近代交通網からは取り残され、道路として利用されなくなってしまったようだ。 今町並は切り妻造り妻入りの家が連なる。表側に庇を深く張り出したり、小屋根を設けたりしている家が多いのは、豪雪地帯の雪対策のようだが、独特の景観を造り出していた。 集落の南端に小国関所跡があった。ここが江戸時代には幹線道路だったとはとても想像ができないが、山間部の僅かな平地の中に突如として、幅の広い一本道の両側に家が建ち並ぶ町並みが現れる。宿場町当時の町割りのままのようだ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 山形県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
小国の町並 |
小国の町並 |
小国の町並 |
小国の町並 |
小国の町並 |
旧小国小学校 |
小国の民家 |
小国の町並 |