秋田市は県西部、西は日本海に臨み雄物川の下流流域に位置する。 秋田(安東)実季は、慶長3年(1598)秋田湊すなわち土崎に湊城を築営したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602)常陸に移封になり、同年佐竹義宣が湊城に入った。 佐竹義宣は翌慶長8年(1603)から久保田に築城をはじめ、同9年には湊城から移城し、城下町の建設に着手した。そして寛永10年(1633)には久保田城下(秋田)はほぼ完成した。 堀川(現旭川)を境として、東部給人町を内町とし、西部の町人町の外町と区別した。内町では他国人の通行や辻売り商売を禁止しているが、外町には東に羽州街道や、西には由利への道、土崎湊への道などを通し、内町と外町を区別した。 外町の町数は寛文3年(1663)の外町屋敷間数絵図に49町とあり、宝暦9年(1759)の御城下絵図には町数53町とみえ、文化4年(1807)にも町数同じく53町であった。 そんな中で大町は外町の中心で、旭川から西へ二番目の通りに羽州街道が通っており、羽州街道往還の公的使者などの宿泊・接待の役を果たした。また弘前藩の参勤交代路になっていて、久保田泊まりの場合はこの地域に宿泊した。 大町には金銀両替の特権を持つ商人や、金木屋呉服店をはじめとする多くの豪商が軒を連ねた。 明治4年に久保田の藩名や城下を秋田とすることを願い出て許可され、以後秋田と称されることになった。 明治4年当時の秋田町の人数は37,988人とある。 明治期に入りこの大町の通りには秋田警察署・日本銀行秋田支店・秋田商工会議所などが建てらて、秋田町の中心地となり発展を続けた。 今、大町通りを歩くも、旧秋田銀行本店の赤レンガ郷土館以外は目ぼしい古い建物が残っておらないが、大町通りの一本西側の通りには古い形式の建物が点在していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 秋田県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 |
大町3丁目の赤レンガ郷土館 |
大町5丁目の町並み |
大町6丁目の町並み |
大町6丁目の町並 |
大町6丁目の町並み |
大町5丁目の町並み |
大町5丁目の町並み |
大町4丁目の町並み |